~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (22-02)
「実は、ぼく、村尾課長さんに、ぜに、お会いしたい用件があるんです。伊豆はどちらの温泉に行っていらっしゃるんでしょうか?」
「さあ」
彼女は困惑していた。
「何ですか、義兄あにはお医者さまに絶対安静といわれたそうで、どなたにもお目にかからないと申しておりました」
「そんなに悪いのですか?」
添田は、もしかすると負傷したあとが悪化したのではないかと思ったくらいだった。だが、これは行先を教えたくないための言訳であろう。
「そんなに悪いとは知りませんでした。けれど、ほんの五分か十分くらいお目のかかれれば結構なんです。いえ、決して、ご容態にさわるようなことはしませんし、もし、そうだったらご遠慮して、すぐ失礼します。その温泉地と旅館の名前など教えていただきたんです」
「さあ」
こういうことにはあまり馴れていないとみえて、夫人の妹はおどおどしていた。
彼女は、多分姉から固く行先を口留めされているに違いない。しかし、対手が新聞社というので、彼女もどうしていいかわからないふうだった。
「もし、お伺いするのが都合が悪いようでしたら、こちらから前もって電話でご都合を直接お訊きしてもいいんです」
門田は気の毒になったが、そう言わないわけにはいかなかった。
新聞社に馴れていない夫人の妹は、竜田の言葉にひっかかった。
「それでは電話番号をお教えしますわ」
彼女はスーツのポケットからメモを取り出した。添田が直接に目的地に行かないで、電話で都合を聞き合わせると言ったことで、彼女は安心していた。
船原ふなばらの・・・」
「船原?」
桑田は手帳に控えながら訊いた。
「船原というと、伊豆の修善寺しゅぜんじから入った所ですね?」
「はい、そうだそうです」
「なるほど。旅館の名前は?」
「船原ホテルです。そこは、その旅館が一軒しかないそうです」
「有難うございました。あ、それから」
と添田は急に気づいた。
「そこでは、やはり村尾さんは本名で泊まっていらっしゃるんでしょうか?」
「いいえ」
本名ではなく山田やまだ義一ぎいちという名前だと彼女は教えた。
翌る朝早く、添田は東京を発った。
三島駅まで電車で二時間ほどかかり、それから先はハイヤーだった。狩野川かのがわに沿った下田しもだ街道を一時間ばかり行くと、道がわかれている。その狭い道も絶えず小さな川に並行していた。
船原温泉は、山を背にした寂しい場所だった。一軒の旅館のほかは、ほとんど農家である。山に秋の色がれ、刈入れのすんだ田圃には切株ばかりが残っていた。
添田は車を降りて、ホテルの玄関に歩きながら困難な仕事に立ち向かう前の緊張を感じていた。そうでなくとも、村尾芳生は京都で不愉快な負傷をして、ここに人目を避けているのだ。一ばん気に入らない新聞記者が一ばん嫌な話題を持って、しつこくここまで追いかけて来ている。村尾芳生の苦り切った表情が、会わない先に眼の前にちらついた。
ホテルはそれほど大きいとは思われない。玄関に進むまで、川に沿った庭にいくつもの亭があるのが見られた。ここはお狩場焼かりばやきが名物だった。
玄関に出て来た女中も素朴そうだった。
「お客さんで、山田さんという人が泊まっていらっしゃるでしょうか」
「はあ、お泊りでいらっしゃいますが」
女中は、しぐ答えた。
「奥さまもご一緒でしょう?」
「はい、そうです」
「東京から来た者ですが、奥さまにちょっとお目にかかりたいんですが」
女中は添田の名前を聞いて奥に行った。
元も、新聞社の名前を言わないから、添田という姓だけでは、村尾が聞いてもすぐに気づかないかも知れない。そのほうがいいのだ。
おずれにしても、夫人だけは玄関に出て来るに違いなかった。その玄関には、ほかの泊り客がどてら姿で歩いていた。
2022/12/06
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