~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (22-03)
夫人が出て来た。添田が青山の家で見た女性とそっくりな顔だちをしている。三十七、八くらいの背の高い夫人だった。
「添田さんと伺いましたが」
と夫人は彼にお辞儀をして怪訝けげんそうに訊いた。
「はあ、前にご主人にお目にかかったことがある新聞社の添田彰一と申します」
今度はポケットから名刺を取り出した。
夫人の顔に軽い狼狽が走った。
これは瞬間に夫の気持を考えて、面倒な対手を迎えた時の表情だった。
「恐れ入りますが」
と夫人は言った。
「主人は身体を悪くして、こちらに静養に来ているものですから、どなたにもお目にかからないことになっています」
と微笑を泛べて断わった。
「いや、それはよく承知しております。ここまで押しかけて来たのは申し訳なく思っております。しかし、ほんの五分か十分で結構です。どうか、ちょっとのお時間をおさき願えませんでしょうか?」
「はあ、それが・・・」
夫人は困った顔をした。明らかに頭から拒絶できない気弱さが、その面長の顔に出ていた。東京からわざわざここまで来たのである。訪問客への気の毒さが彼女の言葉を弱めていた。
「それでは、主人がどう申しますか、一応訊いて参ります」
「恐縮です」
添田は玄関先で待った。
陽が山に黄色い弱い光を与えている。一かたまりの杉林が山肌に黒ずんでまだらになっていた。
やがて夫人がすり足で戻って来たが、その顔つきは困りきっていた。
「あの、申し訳ございませんけれど」
彼女は添田の立っている前で身体を折った。
「主人は都合があって、お目にかかれないと申しておりますが」
添田には、これくらいの拒絶は覚悟の上だった。
「ごもっともです。ぼくが静養先まで押しかけて来たのは本当に申し訳ないと思っています。けれど、ご主人を目当てにここまで来たのですから、ほんの五、六分の時間で結構です。絶対安静ということなら、また引き退がりますが」
添田はそんな言葉を言った。温泉地に来て絶対安静はあり得ないし、ここは病院ではないのだ。医者も付いてはいまい。
果たして、夫人はどうしていいかわからない顔つきになっていた。彼女はまた弱い声で同じ事を繰り返したが、添田はねばった。
「それでは、少々お待ちくださいまし」
夫人は諦めたように起ちかけたが、添田は夫人のその顔に決意めいた表情の浮んでいるのを見て取った。
彼はそこに待たされた。その長い時間は、村尾芳生が新聞記者を追い返してしまえと夫人に命じているのを、夫人が何とかなだめているよいにとれた。さきほどの夫人の表情からそう判断して間違いないように思えた。
向うの庭にどてらを着た男女客が、女中に案内されて川へ歩いていた。女中は手に籠を提げている。お狩場焼でもするのだろうと、添田はぼんやりとそんな情景を見ていた。
村尾夫人が戻て来た。今度はその顔に迷いは見えなかった。
「どうぞ、おあがり下さいまし」
女中がかたわららからスリッパを揃えた。
「それでは、会っていただけますか?」
「はい、何とかそういうふうにさせました」
夫人の顔におだやかな微笑がひろがった。添田は心から頭を下げた。
「どうも申し訳ございません。ほんの十分かそこらで退却します」
「何ですか、病人もいま気が立っていますので、どうかお手柔らかに願います」
添田は夫人のあとに従った。玄関から上って右手の長い廊下を歩く。それは途中でいくつも曲がっていた。
「ここでございます」
奥まった部屋の襖の前で、夫人は添田を振り返った。
「はあ」
添田は思わず上衣を直した。
2022/12/06
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