~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (22-04)
部屋に入ると、村尾芳生はどてらを着て安楽椅子の上に身体をのせていた。そこは広縁になっていて、正面に山の重なりが遠近の色合いを見せていた。
村尾芳生は添田から見て後ろ姿になっている。添田が声をかける前に、夫人が気を利かせて、夫のそばによってささやいた。
「どうぞ」
と夫人は振り返って、添田のために横に椅子を置いた。
「失礼します」
添田は村尾氏の横側に進んだ。
村尾芳生がわずかに首をうなずかせたが、添田の方には眼もくれなかった。その横顔は、添田が見てびっくりするくらい痩せていた。
「今日は」
と彼は頭を下げた。
「ご静養のところ申しわけございません。いま奥さまに申しましたように、ほんの僅かな時間だけ、お目にっかりに参りました」
村尾氏からは、すぐに返辞がなかった。わずかに、首を動かして、添田の方を眼の端で見た。どてらのため肩の繃帯はわからなかった。
「あ、君か」
と初めて言った。声に力はなかった。これは歓迎しない客を迎えて、不承不承に言ったためか、傷のために気がめいっているのか、どちらともわかりかねた。
「ご容態はいかがです」
添田は見舞いを言った。尤もこれは負傷のことには触れない言い方だった。事実を隠している村尾のために、それの触れないのが礼儀だった。
「ああ、うむ」
村尾芳生は口の中で返辞をした。
「突然でびっくりしました。外務省に電話をすると、課長さんのお休みを知ったのです」
「そう」
村尾氏はけむたげな眼をした。
「で、何だね?」
「はあ、失礼します」
添田は傍の椅子に腰を下した。
「押しかけて来たことだけでも、ご不快だと思いますが、その上、お叱りをうけるような質問を持って参りました」
添田は、あっさりと言った。彼も廻り道をせずに単刀直入に答えを引き出したかった。
「ふむ」
村尾課長は山の方を眺めて、顔をこわばらせていた。
「村尾さんが××国に駐在しておられたときのことですが・・・」
添田がここまで言うと、村尾氏は瞳を微かに動かした。添田が来たのが、やはりそのことだったのかと言いたげな不快の表情だった。
「当時、書記生に門田源一郎さんという方がおられましたね?」
村尾は黙ってかすかにうなずいた。不機嫌だった。
「門田さんは、村尾さんもよくご存知だったでしょう?」
「そりゃア」
と村尾はしぶしぶ声を出した。
「同じ公使館だからね。それに、ぼくの部下だから知っているのは当然だ」
「どういう性格の方だったでしょうか?」
「性格? 何だね、今ごろそんなことを訊いて?」
村尾は椅子に背中をつけたままじろりと添田を見た。
「はあ・・・いつか、あなたにお話ししたと思いますが、ぼくは、大戦中の外交史といったものを書きたいと思っています。そのために、いろいろ資材をあつめているのですが、門田さんのことは、そういう意味で村尾さんから伺いたいのです」
「門田は単なる書記生だからね、何も知ってはいない。あれは、ただ、ぼくらの命令を聞いて、事務的なことをしていただけだ」
「いえ、そういう意味ではありません。・・・一等書記官の野上顕一郎さんがスイスに転地療養されたとき、野上さんに付き添ってスイスの病院に行ったのが、門田さんだと聞いています。つまり、門田さんの口から、スイス病院時代の野上さんのことを伺いたいのです」
2022/12/07
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