~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (22-05)
村尾芳生は、やはり遠くの山に視線を置いた静かな眼差まなざしだったが、それは感情を抑えているといの眼つきだった。
「君は、門田に会いたいのかね?」
「はあ、そして、門田さんの人物を村尾さんから伺いたいのです」
「せっかくだが」
と村尾は微かなわらいを出した。
「門噫君は亡くなったそうですよ」
添田はこの答えを予期していた。
「終戦後、あの男は帰国して、すぐに役所を辞めた。九州の郷里の方に帰ったのだが、病気で死んだということを聞いている」
声は平板な調子だった。
「そういう噂は、わたしも聞いていますが」
添田も静かに言った。
「しかし、わたしの社では九州の佐賀、つまり、そこは門田さんの郷里なんですが、佐賀支局で調べてもらったところ、実は、門田さんは亡くなったのではなくて、郷里の家を出て行かれたということがわかりました」
村尾の顔に急に動揺がひろがった。添田は、口の中で小さく叫んでいる村尾の声を聞いたような気がした。
「知らないね」
と村尾は抑えた声で答えた。
「それは知っていない・・・しかし、そんなはずはないがね」
と自分で首をかしげてみせた。
「ぼくは、たしかに門田は死んだと聞いている」
「そうなんです」
と添田はすぐに引き取った。
「九州の実家でも、どういう風に誤り伝えられたのか、東京でそんな噂があると言っていました。現在は、門田さんの実兄がその家の当主になっていますが、それを不思議がっていたそうです。・・・不思議といえば、その後、門田さんの行方が全然わからないことです」
「そんなことがあったのかね?」
村尾の顔には皮肉そうな嗤いが泛んだ。
「よく調べたもんだね。そいじゃ、なにも、ぼくなんかに訊くことはないだろう。君の方の社で当人を探して会った方がいいようだね」
村尾芳生は一介の書記生のことなど、関心がないといったような態度だった。
「門田さんの行方は調査したいと思います。ただ、ぼくが伺いたいのは、門田さんの性格なんですが?」
「誠実な男だったね。仕事もよく出来た。・・・そんなことよりほかにいうことはないね」
添田が続いて質問しようとした時、夫人が熟れた柿を皿に載せて来た。
「田舎で何もございません。でも、柿だけは大へんおいしゅうございます。いま、枝からもいだばかりなんですわ。東京のお店屋さんで買うのとは、まるで違った味なんですよ」
村尾との話が中断した。
夫人は二人の話の雰囲気を察してか、すぐ遠慮して部屋を出て行った。
「門田さんは、野上さんに目をかけられていたのですか」
添田は夫人の姿が消えると同時に質問に戻った。
「どうしてだね?」
「野上さんが病気になられて、スイスに付き添っていらしたからです」
「そりゃ、君、門田が一番若かったからだ。病人を送るのは、忙しいわれわれには出来ることではないからね。そういう場合、やはり若い人に頼む。べつに門田が野上さんと特別な関係があったわけではないよ」
「野上さんは亡くなったのは、前にお聞きしましたが、たしか、胸ですたね?」
「そうだ」
「亡くなる時の意識は、どうでしたでしょう?」
「意識? そりゃわからないね」
「村尾芳生はうっかりと答えた。これが添田の待っていた対手の破綻はたんだった。用心を重ねていた村尾芳生が思わず穴を見せたのだ。
「ご存じない? それはどういうわけです?」
「どういうわけ?」
村尾芳生は反問しあと、自分でもはっとなって口をつぐんだ。しまったという表情がありありと見えた。
「だって、門田書記生はスイスの病院で野上さんの最期をみとっていたのでしょう。すると、あなたが遺骨を引き取りにスイスに行った時門田さんから報告があったはずです」
「・・・・」
村尾芳生が横を向いた。眉の間に深いしわがあった。
「あなたは、門田さんの報告で、野上さんの最期の様子をご存じのはずです」
「たしかに冷静だったと聞いている」
村尾芳生がようやく答えた。
「意識は確かだったんですね。しかし、先ほど、ご存じなかったというのは?」
添田は、ある疑念をその瞬間に感じ取っていた。
「忘れていた。たしかに、門田からそう聞いた」
2022/12/08
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