~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (22-06)
今度は添田が考える番だった。彼の直感として、村尾芳生は門田書記生から野上一等書記官の最期を聞いていない。いや、これは聞いていないわけだった。今の村尾氏の咄嗟とっさの表情といい、うっかりした返辞といい、それを証明している。
聞くはずがないのだ。野上顕一郎の最期ははじめから無かったのだ。
「その門田さんは、村尾さんと一緒の船で帰られたんでしょうね?」
これにも村尾はすぐに返辞をしなかった。何か迷っているようだったが、
「いや、あれはあとの船だったよ」
と答えた
「外交官の身分として、終戦となってからイギリス船で帰って来たが、門田君は残務整理があったので、われわれより一ヶ月は遅れたはずだ」
残務整理・・・添田はここでもそれを野上顕一郎の病死に結び付けた。門田が野上をスイスへ送った。その門田は一船遅れて日本に帰ったという。
このことと、門田源一郎が帰国後すぐに外務省を辞めて、病死が伝えられるほど所在を不明にしたこととに、何か関連がありそうだった。
「君」
と村尾芳生がようやく自分を取り戻した。
「なぜ、君は、野上さんのことをそんなに訊くんだね?」
「村尾さん」
添田は初めて言った。
「野上さんの生存説が伝えられているからです」
「何?」
村尾は添田の顔に眼を据えたが、それほど意外な愕き方はしなかった。その言葉をむしろ半分予期していたようだった。
「変だね。そりゃどういうところで噂されているのか知らないが、野上さんは外務省の公表でもはっきりと死亡になっている。こりゃ日本の新聞にもちゃんと出ている」
「知っています」
「そうだろう。君も大戦外交史の資料を調べているなら、むろん、読んでいるはずだな。いやし xdくも外交官の死が誤報であるはずがない。新聞電報ではない。くどいようだが、日本政府の公表だ」
「わかっています。しかし、それが外務省の誤りだった、という説が強くなっているのです」
「ほう、根拠は?」
「根拠は、野上さんの姿が日本に見かけられるからです」
「変なことを言うね、そりゃ誰が言い出したのだ? え、野上さんの姿を見たという者がいるのか?」
「それを誰だとここでは言えません。しかし、そう言う人がいるのです。ぼくも新聞記者ですから、その人の名前まで言えませんが・・・」
「そりゃ確かだろうね? そんなつまらない話を君とここでしたくない。野上さんのことは、奥さんもはっきりとその死を信じていられるし、遺骨も届いている。今になってくだらない詮索は止め給え。遺族の方が気の毒だ」
「そうですか」
添田は何か言おうとしたのを止めた。
「それでは、ほかのことをお訊ねします」
「もう、止さないか、ぼくはここに来て静養している。君の方から勝手に押しかけたのだ。ぼくは会いたくなかったが、家内が君のために気を遣って、やっと会う気になった」
「どうも申し訳ありません」
添田は頭を下げた。
「しかし、もう一言教えて下さい。今度は別のことです。それは世田谷の奥で殺された伊東忠介さんです。あなたと一緒に××国の公使館にいた、元陸軍武官です。伊東さんが不幸な死を遂げたことは、村尾さんも新聞で読んでご存知でしょう?」
「知っている」
村尾芳生は無愛想に答えた。
「あなたが公使館時代にご存知の伊東さんは、どういう性格でしたか?」
「また性格かい?」
村尾は皮肉な笑い方をした。
「よく人の性格を訊く人だね」
「伊東さんのことも知りたいのです」
「君の處の新聞社で、伊東君の事件を追及しているのかい?」
「追及したないとは申しません。新聞社はあらゆる事件に興味を持っていますから」
「しかし、君は社会部ではない。たしか政治部のはずだ。仕事が違いはしないか?」
「その通りです。だが、ときには、新聞社という立場で互いが協力しあうこともあります。今の場合がそうです。伊東さんを殺した犯人は、未だ判りません。性格を伺いたいのは、その事件を追っているわが社の立場からなんです」
「犯人に目星がついたといおうのか?」
「それが判らないから、いろいろと探っているわけです」
「なるほど、そうだな」
村尾はようやく返辞を考えてくれる段になった。
2022/12/08
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