~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (22-07)
「伊東さんは、一口に言うと、典型的な陸軍軍人だった」
「とおっしゃると?」
「それ以外の批評はない。とにかく、あれくらい軍人らしい人はいなかった」
「それでは、最後まで日本の勝利を信じておられた人ですね?」
「もちろんだ。軍人だからね」
「しかし、内地にいた軍人とは違います。外国の、しかも大戦の様子の判る中立国に駐在した武官です。客観的な判断が出来る立場にあったと思います。現に日本の内地でも、海軍側は敗戦の必至を考えていました」
「伊東さんは海軍ではなかったよ。陸軍だよ」
「とおっしゃるのは、陸軍だから勝利を信じていたというわけですか?」
「その点は、偏狭なくらいだったな。あの人は中立国に居たが、ドイツの大使館にいてもおかしくはない人だった」
添田の脳裏に、閉ざされたものが、一筋の裂け目を見せた。彼はそう感じた。
「それでは、公使館の中にも陸軍派と海軍派の対立があったのですね?」
「・・・・」
「村尾さん、そうでしょう」
「ぼくはよく判らなかった」
村尾芳生は答えを避けた。
「そうですか。村尾さん。では、ぼくの想像を話します。当時、その中立国には、枢軸国側と連合国筋との諜報ちょうほう機関が入り乱れて活躍していた。そのうち、海軍の方はイギリス系の意が働いた。もともと、海軍は伝統的に親英的でした・・・そして、野上さんは、陸軍側よりも海軍側に接近していた。ですから、駐在陸軍武官の伊東忠介さんとは対立していた。こういうふうに想像していいでしょうか?」
不意に村尾芳生が椅子の上で向きを変えた。添田には全然背中だけを見せたのである。
「他人の自由な想像を、ぼくが拘束こうそくするわけにはいかないね。そりゃ各自の勝手だ」
声はその背中から聞こえた。
「しかし、添田君、なぜ、君はそんなに野上さんのことばかり追及するんだ? 誰かに頼まれたのか? 頼んだ人がいるなら、その名前を言ったらどうだ?」
「村尾さん」
添田彰一は初めて言った。
「野上顕一郎は、或いはぼくの義父ちちになる人かもわからないのです」
「何?」
瞬間、村尾芳生が身体をお越し、顔を向けて添田をじっとにらんだ。
「どういうのだ?」
眼が添田の顔に坐ったまま動かなかった。激しい光がその瞳にこもっていた。
「野上顕一郎には遺児が一人います。野上久美子といいます」
「うむ・・・」
村尾はあとの声を呑んでいた。添田は村尾のその視線を正面から受け止めていた。
それを先に外したのは村尾芳生の方だった。上半身も椅子に倒した。
「そうか・・・そうだったのか」
村尾芳生が溜息のような声を出した。
「添田君」
声はうって変わって気落ちしたものになっていた。
「そりゃ知らなかった」
正面の山の光線がいつの間にか変わっていた。裾の方を暗くしていたかげりが稜線を頂上までい上っていた。
「君、野上さんのことを訊くのだったら、滝君に会いたまえ」
「滝さんに?」
添田が椅子から腰を浮かせた。
「滝さんは、どこにいらっしゃるんです?」
「横浜だ。ニューグランドホテルにいるよ」
「ニューグランド?」
添田の頭には、忽ちフランス人ヴァンネード夫妻が泛んだ。東京中のホテリを探して、その宿所が判らなかったのだ。
なるほど、横浜だったのか。
「村尾さん」
添田は村尾芳生の横に起ち上がっていた。
「ヴァンネード夫妻も、そのホテルに泊まっているんですか?」
「村尾芳生の肩が痙攣けいれんしたように一瞬震えた。しかし、言葉は意外に平静だった。
「知らないね、そんな外人は・・・それも滝君に訊いてくれたまえ」
2022/12/09
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