~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (22-08)
添田彰一が伊豆から新聞社に戻って来た時、夕方になっていた。
同僚が添田の留守に電話のかかったいたことを知らせてくれた。
「芦村さんという人からだったよ」
節子からだと思った。
「君が帰ったら、電話をかけてほしいと言っておられた。六時まで待っているということだった」
節子が出先から電話したのかと思ったが、同僚が書き取ってくれた電話番号は、数字の横に「T大学」と註がしてある。節子の夫の亮一からだった。
これは珍しい現象だ。これまで添田と芦村亮一とは殆ど交渉がない。久美子や節子を通して亮一の噂を聞く程度だったし、対手も同じだった。
添田は二度か三度ぐらいは芦村亮一に会っている。ああいう人物が学者タイプというのか、真面目な印象を受けたものだ。自分からは積極的に話し出さない方だが、無愛想ではなかった。絶えず他人の話を聞く側に廻っいて、挨拶も普通の人より丁寧だった。
その亮一から、突然、電話がかかったきたのは奇妙だった。それに、自宅からだったら、もっと普通に受け取れるのだが、わざわざ大学に電話しろというのだ。そこに何となく節子を避けているような意味を感じた。
添田はメモの通り電話した。
聞いたことのある亮一の声が流れて出た。
「留守をしていて失礼いたしました」
添田が詫びると、
「都合を聞かないで申し訳ありませんが、今夜、お目にかかれないでしょうか?」
と亮一の方から言った。
「結構です。ぼくの方はほかに用事もありませんから。どちらに伺ったらよろしいでしょうか?」
「ぼくは、そういう場所はあまり知らないのです。それで、あなたさえよろしければ、おの大学の近くにレストランがあります。そこでお待ちしていましょうか?」
「結構です。すぐに伺います」
「場所はおわかりでしょうか? 正門前の電車通りになっています」
「はあ、およその心当たりはあります」
添田はタクシーの中で、芦村亮一が何を思い出して自分を呼んだのかと思った。折が折なので、妙な気分だった。船原温泉で村尾芳生に面会した直後のことだ。ほかの用事は思い当たらない。やはり野上顕一郎に関係したことだと直感した。
芦村亮一は、久美子が京都に行く時、わざわざ警察の人に頼んだぐらい気を遣っている。尤も、芦村亮一は、野上顕一郎がこの世に存在して、しかも、いま日本に来ていようなどとは夢想だにしていないのに違いない。ただ、この間から久美子を取り巻いて妙な出来事が次々と起こっているので、それに関連した相談かと思った。
久美子と添田の間は、節子を通して亮一も十分に知っている。
大学の正門と塀とが長々と見える真向いに、きれいなレストランがあった。添田は二階に上った。一階は場所がら、学生たちが茶を喫んでいる姿が多かった。
芦村亮一は二階の窓際に腰を下ろして新聞を読んでいた。添田が近づくと、新聞をたたみ、
「やあ、どうも」
と軽く会釈した。
「お電話を有難うございました」
添田は対い合った椅子にお辞儀をして腰を下ろした。
「「いや、かえって、突然お呼びしたようで、すみませんでした」
芦村亮一はyはり穏やかな挨拶をした。
「お忙しいのでしょう?」
「いや、今はそれほどでもありません」
「新聞社というところは、われわれの世界と違って、毎日の出来事を追っかけているようですから大へんだと思いますね。まあ、われわれだと、いつも同じようなことばかりやっていて、ときには、退屈に思うこともありますがね。その点は、活気のある仕事ですね」
芦村亮一はそんなことを言って、なかなか添田を呼びつけた本題に入らなかった。
が、自分でメニューから品物を選び、給仕に命じたりして、細かい心遣いを見せた。
食事の間も、いつも節子や久美子が世話になるという礼を述べたり、さらに新聞社の仕事のことでも、二、三質問したりした。
しかし、添田彰一は、この病理学の助教授が興味で世間話をしているのではないことはわかっていた。
芦村亮一は、もっと重大な用事を添田に持っているのだ。しかし、それがすぐに言い出しにくいので、口に出し得ないのだ、と想像していた。
レストランの二階から見ると、塀越しに大学のが見える。それは、亭々と伸びた銀杏いちょうの黒い梢の間からも洩れていた。
表を学生が口笛を吹いて通っていた。
2022/12/10
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