~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (22-09)
「実は、この間、九州に学会がありましてね」
助教授は突然言い出した。
「場所は福岡ですが、・・・・あすこは地方に珍しい大都会ですね」
「はあ、ぼくも福岡は出張があって行ったことがありますので、よく知っています」
添田も相槌あいづちをうったが、なぜここで福岡の話が出るのかわかたなかった。やはり、世間話の続きである。
「ほう、あなたもいらしたことがあるのですか>」
助教授は、びっくりしたように言った。こういうところが、学者の世間知らずかも知れない。自分だけが珍しい所に行ったように思っている。
「ぼくは散歩に東公園というところに行きました」
「九州大学のすぐ近くですね。しかし、海が見れてきれいな点は、やはり西公園ですよ。玄界灘が丘の下に展がっていて、海に突き出た細長い島が正面に見えるんです」
「ああ、そうですか。ぼくは西公園というのは知りません。しかし、東公園は・・・」
なぜ公園のはなしばかりするのか、添田は興味のない相槌を打っていた。
── 芦村亮一は野上顕一郎と出会ったことを、この添田彰一を呼んで話したかったのだ。
彼は誰かにそれを話さねば気が落ち着かなかった。この間、九州から帰ってすぐに野上孝子や、久美子や、妻の節子を連れてホテルに食事に行ったが、それは、なんとなく自分の愕くべき体験を気持の中で伝達したつもりだった。しかし、当然なことに、三人の女たちは何も感じなかった。結局、自分の意図が無意味だとわかった。
やはり、これは、言葉に出さなければ気分がおさまらなかった。しかし、その話し対手の選択がむつかしい。むろん、孝子も久美子もこの聞き手から外さなければならない。妻の節子も不適当だった。
彼女らはあまりに野上顕一郎に密着しすぎている。だからといって、関係のない第三者はそれ以上に適当でなかった。すると、やはり添田しかいないのだ。添田の位置は、将来、久美子の夫として野上家に接着しているし、肉親でないという点では距離がある。つまり、このほどよい距離を芦村亮一に添田を聞き手として択ばせたにだった。
だが、いざ、本人を呼んで話し出す段になると、何も言えなかった。これを打ち明けると、添田は久美子に伝えるかも知れない。口止めしても洩れそうだった。久美子は母に告げる。
その結果の重大さが芦村亮一をこの場になってひるませていた。
── このような点では、添田彰一もほぼ似た心理だった。
添田は野上顕一郎が生存していることを信じている。しかも、それはフランス人ヴァンネードとなって来日していると想像しいた。この信念は、たった今、伊豆の船原温泉で村尾芳生に聞いたことでさらに深めた。
添田が一ばんひっかかっているのは、野上顕一郎にフランス人の妻があることだった。
この事実がなかったら、彼も勇をして野上孝子や久美子に自分の推測を打ち明けたかも知れない。しかし、顕一郎に妻のあるkじょとがどうして口に出せようか。いや、当の孝子だけではないのだ。自分の眼の前に坐っている節子の夫芦村亮一にさえ、告白するのは困難だった。
節子の夫という亮一の立場に適当な打ち明け対手を見出しているのだが、この話が彼の口から妻の節子に伝わり、さらに孝子、久美子と伝達されたときの衝撃を考えると、うかつには言えないのだ。
たしかに野上顕一郎は生きている。それを知った時の孝子や久美子の悦びはどのようなものであろうか。だが、内容が顕一郎の新しい妻の存在に突き当たると、折角の悦びは一どきに別な感情に変わってくる。・・・・
一方、芦村亮一も福岡の東公園で野上顕一郎に出遇った話を、ただ公園の序章だけで停滞させているのは、添田が今日、伊豆に行ったことだけを話しているのと同じ逡巡しゅんじゅんだった。それから先の内容は、二人とも互いにカーテンを閉めていた。
「ほう、伊豆にいらしたのですか?」
芦村亮一は添田の話を表面うわべでは面白そうに聞いていた。
「ええ、ちょっと用事がありまして、今朝発って、たった今帰ったばかりです。あ、そうだ、お電話した時が、恰度、社に戻ったときなんです」
「そりゃお忙しい」
と亮一は同情したように言った。
「せっかく、伊豆までいらしたのだ。せめて、温泉にでも一晩おつかりになるとよかったのに」
「いや、そうもいきませんでした」
「伊豆は、どちらの温泉ですか?」
「船原温泉でした」
「ああ、お狩場焼きで有名ですね。あれは、ぼくの友人が一度行ったと言って話しているのを聞きました」
一体、何の話をしているのだ。ここでも伊豆の温泉だけが会話の上をすべり抜けていた。
2022/12/11
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