~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (22-10)
── 添田彰一は、芦村亮一がどのような用事で自分を呼びつけたのか、次第にわからなくなってきた。食事が終わっても、遂にそのことに触れない。コーヒーが出た。
添田は対手の本題を待った。茶を喫んだら、もう、話す時間はないのだ。
「どうも、わざわざお呼び立てして」
と芦村亮一はの悪そうな顔をして言った。
「べつに大した用事はなかったのですが、一度、あなたにお会いしたかったものですから」
「はあ?」
添田は助教授の顔を見ていた。
「いいえ、いつも久美子がお世話になっているので、あなたにはお礼を言いたかったのです」
「とんでもない」
添田は言ったが、亮一が呼んだのは果たしてそれだけのことだろうか。彼は肩すかしを喰わされたような気になった。
「では、これでここを引き揚げましょうか?」
「はあ」
芦村亮一は、鞄を持ち、カウンターの方へ歩いた。そのゆっくりした足取りには、亮一自身の迷いがまだ残っていた。
しかし、遂に機会は失われた。二人は肩を並べて階段を降りた。階下の喫茶部には、相変わらず学生たちが多い。芦村助教授の顔を見て挨拶をする学生もいた。
二人は電車通りに出た。停留所まで歩いていると、並んでいる古本屋の奥に電灯が点っている。幾つもの山になった古本が、侘しく光を受けていた。
「添田さんのお宅はどちらでしたっけ?」
芦村亮一が訊いた。
「はあ、芝の愛宕あたご町です。社の独身寮がそこにありますから」
「ああ、そうですか。それでは、ぼくは道が違いますから、タクシーに乗って途中までご一緒いましょう」
芦村亮一は、ちょうど通りかかった空車を見つけて手を挙げた。
タクシーの中でも、二人は何の話もできなかった。五分もすると、添田は下りなければならなかったし、話のつぎ穂もなかった。妙な具合で添田はタクシーを下りた。
「失礼しました」
「ご免下さい」
芦村亮一の影を乗せた車は、添田の前から走り去った。
添田の下ろされた所は、湯島の寂しい通りだった。両側の並木が、暗い中でも色づいている。添田は聖堂の方へ足を向けた。この通りは添田の好きな道だった。
橋村亮一は何のために自分を呼びつけたのだろうか。ただ、久美子の礼を言うためだったとは思われない。芦村助教授は、本当は別のことを言いたかったのではなかろうか。
それが言い出せないままになった。こう想像して間違いないようだ。何となく、ちぐはぐな気分で別れたのも、そのせいだと思われる。
では、芦村亮一は何を打ち明けたかったのだろうか。そして、添田の顔を見て、遂にそれが言い出せなかったのは、どのとうな理由によるのだろうか。
ここで添田は、自分の心理を芦村亮一に置きかえてみた。
(芦村亮一は、野上顕一郎の生存を信じている)
それが自分を呼んだとしか思えない。亮一も、その事の重大さは、妻にも、妻の従妹の久美子にも、告白出来なかったのではなかろうか。しかし、黙ってはいられない気持が自分を呼んだのではなかろうか。
ここで、添田は、芦村亮一が今の自分の立場と、極めて強い相似性を持っているのに気づいた。
後悔が添田の胸に湧いた。思い切って自分の方から言い出せばよかった。すると、芦村亮一も本心を打ち明けてくれたかも知れない。添田は、芦村亮一がどの程度に野上顕一郎の生存を信じているか、そして、そのデータをどの広さまで握っているのか、急に知りたくなった。
添田の眼に、御茶おちゃみず駅の灯が見えてきた。暗い中で、ホームは汽船のように浮かんでいた。
そのときだった。添田は、はじめて村尾芳生の言葉の意味に気づいた。──
あれは、久美子をれて横浜のニューグランドに行け、ということだったのだ!
2022/12/12
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