~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (23-01)
品川の旅館筒井屋の主人は、帳場から自分の部屋に戻った。帳場は玄関のすぐ脇だが、主人の部屋は廊下を歩いて奥まったところにある。客室の方角とは別に、調理場や傭人やといにんを寝かせる部屋のつづきである。
今夜は早くから泊り客が入った。品川駅が近いという地の利もあって、小さいが忙しい宿屋なのだ。その代わり、客筋はあまり上等とはいえない。
主人は襖を開けて座敷に入ったが、六畳の中央で立ち停まった。
壁際には侘しい机が一つ置いてある。女房のいない独り者の生活で、身のまわりは女中がみてくれている。しかし、この部屋の掃除だけは、主人の筒井源三郎が自分でやっていた。整理はよく行き届いている。その几帳面さは、彼の生来の潔癖というよりも、過去にしつけられた習性といったものを感じさせた。
筒井源三郎は立ったまま、濃い眉の下の眼を机の上に注いでいた。天井から吊り下がった電灯が、顴骨がんこつの出た彼の頬に黒い窪みをつけている。
強張こわばった表情だった。眼が部屋を見まわした。これは自分の部屋なのである。誰もここには寄せつけないようにそている。
しかし、筒井源三郎は、いま、この部屋に、自分が出た時の空気とどこかが変わっていることを感じているのだ。留守の間によどんだままになっている筈の空気とは違う。誰かが入って乱したという感じった。
主人は机の上に置かれたものを丹念に眺めはじめた。はしに、積み重ねた帳面、インクスタンド、ペン、煙草のピース、鉛筆、便箋。── 平凡だが、実は、それぞいれの品に目じるしがあったのだ。たとえば、帳面の積み重ねが、彼なりの心憶えのかたちになっていた。インクスタンドとペンの置き具合にしても、便箋のやや斜めになったかたちにしても、それぞれに彼の工夫があった。留守の間に少しでも動いていれば、ひと目でわかるようになっていた。
重ねた帳面のかたちには狂いはなかった。インクスタンドとペンの位置も正確に自分の置いた通りだった。便箋 ── これは位置は違わないが、少し感じが変わっている。つまり、一度は表紙をめくって中身を見たらしい形跡がある。表紙ややや下の紙とスレているのだ。
主人は襖を開けて、廊下から女中を呼んだ。
「およね、およね」
二階の座敷で泊り客の騒ぐ声がする。主人は、もう一度、手を鳴らして呼んだ。
遠くから返辞があって、顔の丸い、あかい頬の女中が小走りに廊下を歩いて来た。
「お呼びですか?」
「こっちに入ってくれ」
主人は女中を部屋の中に入れた。
「おれの留守の間に、誰かこの部屋に入ったかい?」
眼が自然と鋭くなった。
「いいえ」
女中は主人の真剣な顔色に気付いて立ちすくんだ。この女中は、添田がここに訪ねて来た時、殺された客の伊東忠介のことを答えた女である。
「おふさは」
と主人はもう一人の女中の名前を言った。
「ここに入らなかったのか?」
「気がつきませんでした。でも、旦那さんが帳場に坐っていらっしゃる間、わたしたち二人は、お客さまの部屋でてんてこまいでございましたから、おふささんもここに来る暇はなかったと思います」
主人は黙って考え込んでいる。
栄吉えいきちはどうしている?」
「表の方にいるようです」
「そうか」
「旦那さん、何か部屋の物が無くなっているんですか?」
女中が聞いた。
「いや、そういうわけではない・・・」
「女中は怪訝けげんそうに主人の顔を眺めていた。
「まあ、いい。誰もここに入らなかったら、それでいいんだ。ここは、お前も知っているように、おれが掃除をしたり、片づけたりしているのだからな」
「旦那さんの留守の間に、わたしは入ったことはありませんわ」
「よしよし。もう、いいから、向うに行ってくれ」
主人は女中を去らせると、うしろの襖を閉め直し、机の前に坐った。
抽斗ひきだしをを開けて検査べる眼つきになった。そこにもいろいろな物が入っているが、掻き廻された跡はない。
主人はふところから煙草を出し、マッチをすって、烟を吐いた。かなり長い時間そうしていた。
2022/12/13
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