~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (23-02)
廊下に傭人の足音が聞こえる。客座敷では、男の声が二、三人で笑い合っていた。
階段を降りて浴室に案内するような様子が音になって伝わって来る。夜の八時から十時の間が旅館の忙しい時間だった。
主人はしばらくそれを聞いていたが、短くなった煙草を灰皿にこすりつけると、机の前からって押入れに歩いた。襖を開けると、自分だけ用の蒲団が積み重ねてある。几帳面なたたみ方で、まるで軍隊のように整頓いてある。
主人は蒲団の間に手を入れた。隠したところから取り出したのは、ハンカチ函のようなうすい紙函だったが、蒲団の重みで少しひしゃげていた。
彼はそれを机の上に置いた。蓋を開けると、別な便箋が出て来た。それを机の上にひろげたが、書きかけの紙が四、五枚挿んである。
主人は書いていたところをはじめから読み直した。ときどき、文句を消したり、付け加えたりしている。最後は文章が途中で切れたままになっている。
彼はペンをとった。そのつづきを書きはじめた。
背を丸めて、主人は文字を書くのに熱心になっていた。ときどき、ペンが渋滞した。そんなとき、彼は煙草をすって、文句を考える風だった。暗い表情は、電灯の加減だけではなく、深い皺が額に集まっていた。
廊下の足音がこの部屋の近くに来ると、彼は急いでその上にほかの紙を置いた。一方の耳で音の気配を聞いている。
「旦那さん」
襖の外で女中が呼んだ。
「何だ?」
振り返って少し開いた襖を睨んだ。女中は半分顔を出して、主人のこわい顔付にぎょとなっている。
「用事があるなら、早く言いなさい」
「はい、かえでのお客さんが、部屋が狭いから、もう少し広いところに移してくれ、とおっしゃっていますが」
「あの部屋は、今夜十時に来るお客さんの先約があるだろう、断わってくれ」
「そう言いましたが、そちらのお客さんをこちらに移すよう、何とかしてくれないか、とおっしゃるんです」
「断わってくれ」
主人の声がとがった。
「では、そのままご辛抱下さい、と申しましょうか?」
「いや、お泊めするのを断わるのだ」
「え?」
「出て行ってもらいなさい。お金は一銭も戴かないで、出てもらうのだ」
癇癪かんしゃくを起こしたような険悪な声だった。女中はびっくりして、返辞も出来ずに立ち去った。日ごろは温厚すぎるぐらいの人なのである。
主人はまた便箋に眼を戻している。ペンを執ったが、女中が見た怕い顔はつづいていた。
それからたっぷり一時間近くかかって、主人は手紙を書きつづけた。全部で便箋に十枚ぐらいだったし、それも前に書きかけた分を入れてである。普通の手紙にしては、大そう時間をかけている。
2022/12/13
Next