~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (23-03)
自分の影が急に道路の前に映ったのは、うしろからヘッドライトが射したからだ。彼は気がつかなかったが、この車は、ずっと前からライトを消して、その辺に駐車していたのだった。
車は黒塗の大型外車だった。これが彼の横で速力を落とした。
「もしもし」
車の中から、人の声が彼を呼び止めた。運転台も、客席もあかりがなく、真暗だった。ただ、窓から覗いた運転手の顔だけが外灯に淡く浮かんだ。二十四、五ぐらいの、長い顔だった。
筒井源三郎は足をゆるめた。と同時に、車も彼の傍にならんでぴったりと停まった。
「ちょっと、お伺いしますが」
運転手はペコリと頭を下げた。
「この辺に、山岡おかやまさんという家があるはずですが、ご存じないでしょうか」
これは普通のことだ。運転手が、この近くの住人だと見て、彼に地理を訊くのである。
「山岡さん?」
筒井源三郎が首をかしげて近所の家を思い出そうとしている時、
「よしよし、ぼくが訊く」
と別な声がして、客席のドアが開いた。
普通の車だったら、ドアが開けば私人にルームライトがつく仕組みになっている。しかし、この車はどういうわけか、ドアが開いても真暗だった。この不思議さに筒井源三郎はすぐに気がつかない。
「恐れ入ります」
暗い座席から声が来て、同時に、ぼんやり姿が動いて見えた。
「山岡さんというのは、この辺の番地とは合ってるんですが、どうも、家がわかりません。ご主人は農林省に勤めていらっしゃる役人ですが」
「さあ」
記憶にないのだ。
「ちょっと、私にはわかりませんが」
筒井源三郎が答えた時、やはり暗い座席から、今度は違った声が飛んで来た。
「やあ、あんたは、筒井屋のご主人じゃないですか」
馴れ馴れしい調子だった。
「は?」
主人がこれを自分の家に泊まりに来たことのある客か、と考えたのは無理もなかった。
思わず腰を半分かがめて、
「どちらさまでしょうか?」
と訊いたのも当然の動作だ。
「ぼくだよ、ほれ」
向うは自分の顔を見せようとする。生憎あいにくと外の光が暗いから、宿の主人には判別がつかない。
「しばらくでしたな」
「どなたでしょう?」
「判りませんか? まあ、こっちをのぞいて下さい」
その瞬間、彼の背中は強い力で突き飛ばされた。いつの間にか運転手が席を降りて、彼のうしろに廻っていたのである。
旅館の主人の身体は車の内に向かって前のめりになった。そのえりを誰かの手が掴んだ。主人は自分の反動でせまい床に転がった。横倒しになった身体は、何人かの脚と、運転手の座席裏の間に挟まった。
途端に、彼の身体がまたはずみをつけた。車が急な速力で走り出したのである。
あっという間もなかった。宿の主人は襟首を掴まれて上半身をひき起こされた。暗い中で人間の力だけが動いていた。主人が次に気づいたのは、自分が人と人の間に無理にひき据えられたことである。これも強い力で押さえつけられた。
「何をする?」
彼はようやく声を出した。が、あとがつづかなかった。彼の咽喉に男の腕がはまり込んだのである。
2022/12/14
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