~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (23-04)
筒井源三郎は、自分が絞め殺されるかと思った。しかし、腕はそれ以上に彼の咽喉を絞めなかった。これは声を出させないために対手がとった方法とみえた。呼吸いきが苦しい。
車は暗い邸町の坂をかなりな速度で走っていた。明るい通りが窓に幾つも通り過ぎた。
知っている町だったが、今は彼とは隔絶かくぜつした世界だった。商店のネオン、道を歩いている散歩者、すれ違うバス、バスの中に見える乗客 ── 誰もが拉致らちされて生命の危険にひんしている彼とは無縁だった。いや、交番さえそこにあるのだ。巡査が赤い電灯の下で往来を眺めていた。
「もう少しの辛抱です」
耳の横で隣の男が囁いた。低いが、太い声だった。
「苦しいでしょうが、こうしないと、あなたが声を出すからです」
筒井は、声を出さない約束すると手真似で対手に伝えようとしたが、一方の腕が傍の男に握られているので、自由がかなかった。それもがっしりと押さえ込んだ力にである。
車は順調に道を走った。みんな知っている道路ばかりだった。狭い路は、広い通りに出た。ゴーストップが幾つもある。赤信号にかかると、窓際の男が彼を外から隠すように姿勢を変えた。
道は目黒めぐろ区に入っていた。見憶えの建物から判断して、真直ぐ行くと、中目黒なかめぐろに出るのだ。祐天寺ゆうてんじが過ぎた。東横線のガードの下を潜った。宿の主人が愕然がくぜんとしたのは、車の方向が三軒茶屋さんげんぢゃやの方角へ向っていたことである。彼がその方向に恐怖する理由が自身の記憶にあった。
宿の主人は藻掻もがいた。
「おとなしくしなさい」
子供に聞かせるような調子だった。
「声を立てると、われわれはもっと手荒なことをしなければなりません」
彼を挟んだ両方の男は、どちらも箱のような頑丈な体格をしていた。その言葉にはいささかの空威からおどしもないようにみえた。
三軒茶屋の雑踏ざっとうした交差点こうさてんに着いた。ここでも、ゴーストップがこの車をしばらく休ませた。窓に灯のついた電車が走る。童画でも見るような愉しい電車だった。すぐ横に、いや、横ばかりではない。前も、うしろも、タクシーやハイヤーがとり巻いているのだが、むろん、この車の中の異変に気づいていない。主人にとっては、みんな手の届くところにいるのである。
車は走り出したが、その後も宿の主人にとって周囲のあらゆるものが無縁であることに変わりはなかった。
車は広い道の邸町を進んだが、やがて、それが狭くなった。経堂きょうどうの駅の灯が窓に僅かな間見えたが、それも急角度に曲がった。あとは場末の暗い町つづきになる。十時過ぎなので、戸を開けている店も少なかった。ただ、狭い道を車がヘッドライトを走って来るだけである。むろん、その光がこの車の中を照射しても、対手がこちらの出来事に気づくはずもない。
家並みは切れて、畑と雑木林の多い地域に入った。路も田舎じみてきた。
車がその路からわかれた細いみちにすべり込んだ。車の屋根を鳴らしたのは、茂った梢の先だった。径は森の中につづいているが、その先にゴルフ場があるだけで、人家は無かった。夜は人の通らない径だ。
2022/12/16
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