~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (23-05)
車は雑木林の下に隠れるように停まった。
声を出しても、容易に遠くまで届かない土地とみえた。
「窮屈な目にあわせましたね」
宿の主人の頸に腕をかけた男が、それを外してから言った。
「さすがに、ここまで来て騒がれなかったのは立派でした」
「騒いでも仕方がないだろう」
筒井源三郎は自由になった手で自分の咽喉をでた。
「いい覚悟です。門田さん」
宿の主人に向かって呼んだ名前だった。暗い中で主人の身体が凝固したようになった。
「いつからそれがわかったのかね?」
彼は落ち着いた声を出した。
「伊東忠介さんが、ここで殺されたずいぶんあとですよ」
相手の声も監禁者の調子に合わせた。
「われわれは、懸命に伊東さんを殺した犯人を調査しました。伊東さんが単純な動機で殺害されたのではないとわかっていましたからね」
「君たちは、伊東元中佐と終戦後もずっと連絡を取っていたわけだね?」
「お察しの通りです」
「君たちの団体の名前をいいたまえ」
「名前はここで言う必要はありません。とにかく、伊東元中佐とわれわれグループとは一つの志をもって団結していたことだけは知って頂きます」
「ぼくの素姓がどうして判ったのかね。伊東君から聞いたのか?」
「的確には、中立国公使館勤務の元書記生門田源一郎氏が、現在品川の旅館“筒井屋”の主人筒井源三郎氏になっていることは、伊東さんは教えてくれませんでした。しかし門田書記生が東京にいることだけはほのまかしていました。それは、伊東さんが門田さんとの昔のよしみでわれわれには黙っていたのだと思います」
「それがわかったのは?」
「伊東元中佐が奈良から出て来て、世田谷の奥で殺されるまで、どこに泊まっていたかを知っていたからです。いや、正直に言って、そのときはまだ何も気づいていませんでした。地方から出て来た人が旅館に泊まるのは普通ですからね。ところが、伊東さんが世田谷の奥に行った理由がわからない。われわれとしては、伊東さんがむざむざとあの現場に強制的に連れて行かれたとは思っていなかった。伊東さんは年齢としはとっても柔道は講道館で四段という腕前でした」
「それで?」
暗い車の中で問答は続いた。
「それで、伊東中佐は誰かにだまされて世田谷の奥に行ったと判断したのです。もちろん、そこへ伴れて行った人間が、伊東さんを殺した犯人に違いありませ¥。しかも、あれほど強い人がむざむざと絞殺されたのだから、これは不意をくらって後ろから紐をかけられたと想像されます。つまり、それだけ伊東さんは対手に油断していたわけです。ということは、伊東さんと伴れの人物とが、よほど親しい仲だったということです」
「なるほど」
と筒井屋の主人元書記生門田源一郎はうなずいた。
「それで、すぐ、ぼくだと思ったのか?」
「いいえ、その人物があなただと推定するのに、相当長い時日がかかりました。実に長い時間でした」
対手も言葉を続けた。
「というのは、伊東さんがなぜ急に東京へ出て来たか、ぼくらにはわからなかったからです。あの人は上京すると、必ずぼくらの方に連絡していました。この前だけ、それがなかった。われわれは、新聞記事で伊東さんが東京に来ていたことを初めて知ったくらいです・・・なにしろ、伊東さんは大和の郡山で雑貨商などをやっていますが、それは世間体だけで、あの人はまだ烈々たる愛国心に燃えて行動的だったのです。そのために、わざと戦後に復活した旧軍人の友好団体にも入らず、地方でひっそりと暮らしていたのです。あの人はわれわれの同志だったのですよ」
男はここでちょと声を跡切らせた。窓に顔を寄せて暗い中をのぞいている。
「続けなさい」
門田源一郎は催促した。男は顔を戻した。
「それで、伊東さんが何のために上京したかわからない。もちろん、伊東さんの上京とその不幸な死とに深い関係があることはわかります。ですから、われわれの調査は、もっぱら伊東さんが東京に出た目的を知ることから始まりました」
2022/12/17
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