~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (23-07)
「そうです。だから、われわれはいよいよ積極的に彼を責めました。すると、やっと滝氏は、自分は知らないが野上氏の死亡が大へん疑わしいことだけを言いました。何故なら、当時スイスの病院で氏の臨終に立ち会った日本人はひとりも居ないからだと言いました。そこでわれわれは突っ込みました。もし野上氏の死亡が真実でなく、生きていながら死亡の公表がなされたという理由は何だろうかと・・・」
「滝氏は、どう答えた?」
「わからないといいましたよ。しかし、われわれは、すぐ野上氏が中立国公使館でどのような動きをしていたかを調べてみました。それには、われわれにそのルートがあったのです。すると、なんと野上氏は日本の外交官として派遣されていながら、利敵行為をやっていたのです。日本が戦争をしている時ですよ」
「・・・・」
「その事実を知ったときのわれわれの憤慨と愕きとは言語に絶したといっていいでしょう。野上氏は当時スイスに駐在していたアメリカの戦略情報局の親玉や、イギリスの諜報部門と連絡を取って、日本を出来るだけ早く敗戦に追い込むように企んだのです。このことから想像すると、野上氏の死亡公表は、実は己の国籍を消すためにした工作でした。われわれの想像するところによると、彼はスイスの病院から脱出して、イギリスに逃亡したと思われます。そこで連合国側と協議して、ひたすら日本敗北の策略練っていたと思われます。何しろ、当時のスイスは連合国側の情報網の巣になっていて、殊にアメリカ機関の親玉は、後にCIAの長官になったぐらいの辣腕家で、ルーズベルトの信頼は絶大でした。また、イギリスの諜報屋もウィンストン・チャーチルに直結していたのです。こんな連中の網にかかって、野上顕一郎氏は遂に日本を売るようになりまし」
「それから?」
門田元書記生は沈痛な声を出した。
「これには日本政府の中に共犯者が居たのです。いくら野上書記官が優秀でも、ひとりで出来ることではない。政府の中に巣くっている親英米派と必ず気脈を通じていたと思うんす。日本の軍部が抗戦八年の余力を持ち、またそれにこたえるだけの物資を抱えながら、むざむざと屈服したのは、こういう獅子身中の虫が策動したからです」
「しかし、そりゃア・・・」
「待って下さい。あなたは、野上氏の裏切行為にそれほど大きな効果はなかったと言いたいのでしょう。たしかに、日本の敗戦という大きな事実の前に、野上氏の裏切り行為がどれだけその手伝いになったか、その辺はわかりません。しかしですよ。日本の外交官たる者が、戦争中に敵国と共謀し、国籍まで消して、皇国を敗戦に導くように策動したことは、断じて許せません。われわれは絶対に許せませんよ」
男の声は激した。
「おそらく、伊東さんも野上書記生が死んだものと信じていたのでしょう。ところが、実は、それが擬装で、おめおめと生存していた。しかも、いま、日本に遊びに来ていいることが判ったのです。こりゃ伊東さんでなくても、日本国民なら誰だって腹が立ちます。なにしろ、売国奴が今ごろになってこそこそと日本に舞い戻っているのですからね」
男の声は、暗い中でつづいた。
「伊東さんは、滝良精と、村尾芳生を、それぞれ自宅に訪ねている。いま、野上が生きて帰っているらしいが、どこにいるか、と詰問きつもんしたに違いありません。ところが、二人とも、全然知らない、と言ってシラを切った。これは想像だが、確かだと思います。だが、伊東さんは、彼らの嘘にも拘わらず、東京に居る野上の正体を嗅ぎ当てたのです。それには、ここに一人の重大な人物が居たからです」
「・・・・」
「野上は、当時の海軍側と結んでいました。海軍は初めから戦争には軟弱論でしたからね。従って、中立国に駐在している武官の中でも、伊東さんの陸軍派と海軍派とは、絶えず反目し合っていました。海軍派と結んだ野上は、その機関の秘密援助によって、スイスの病院から、イギリスあたりへ脱出したのですが、このときに、その脱出を助けたもう一人の人物が居たのです・・・門田さん、あなたですよ。書記生だったあなたが、たしかに、野上をスイスの病院まで見送ったはずです」
「・・・・」
「伊東さんは、野上が生きていると知った時、はじめて門田書記生に対する不審が起こった¥。多分、伊東さんは、あなたを問い詰めて真相を究明したに違いありません。この火のような伊東さんの追及の前に、あなたも遂にシラを切ることが出来ず、一切を白状したと思います。それを聞いて、伊東さんはいよいよ激昂した。そして、すぐにでもおれを野上のところに伴れて行、と言ったでしょう。伊東さんは、野上のところへ行き、この売国奴を刺し殺す決心だったのです・・・」
2022/12/18
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