~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (23-08)
遠いところで音がした。車の中の二人の男は、窓に顔を寄せていた。何事もなかったというように、ふたたび傍の男の話がつづけられた。
「門田さん、あなたは、たしかに野上脱出の手伝いをしている。戦後になって帰国直後に外務省を辞めたのも、その暗い原因があったからです。さすがに、あんたはそのまま外務省に残ることが出来なかった・・・ところで、今の話のつづきを言うと、あんたは、野上の帰国にも必ず何か手伝いをしていたと思われる。おそらく、東京に滞在している野上の宿所を知っているのは、あんたと、滝と、村尾だけだったと思う。どうです、違いますか?」
「その通りだと考えてもいい」
門田が重い声で答えた。覚悟している声だった。
「だから、あんたは、激昂した伊東さんが野上にとって危険な人物だと考えた。いや、それだけでなく、もし、伊東さんが野上を刺してしまえば、当時の秘密事情が全部明るみに出てくる。あんたは伊東さんを殺そうと決心した」
暗い遠くの方でヘッドライト一つ走って行った。
「あんたは、多分、これから野上さんの宿舎に案内すると言って、伊東さんを伴れ出したと思う。それは、あの晩だった。一緒に宿を出ると、ほかの者に目立つと言って、多分、別々に旅館を出て、途中で落ち合ったことと思いますがね。それから、あんたは、伊東さんを世田谷の奥の現場に伴れ込んだ「。今から想像すると、途中まではタクシーに乗ったと思われるが、現場からなかり離れた所で車から降りる。そして、そこまで歩いて行ったと思う。一つは、乗りもののかとから足がつくのを恐れたのと、一つは、かなりの距離を歩くので、時間的にも夜がふけるのを計算に入れていたのです。伊東さんは、あんたをすっかり信用していた。だから、全然無防備だった。安心してあんたの横を歩いたのです。あんたは、あの現場近くまで来ると、油断している伊東さんのうしろから襲いかかり、いきなり頸に紐を掛けたと思います。そら、すぐそこに、その現場が見えますよ」
男は車の窓を指した。遠くに人家の灯が見えた。それもひどくまばらだった。ほとんどが畑と雑木林の黒い影でおおわれている。
もつとも、あんたがその犯人だと判るまでには相当苦労しましたよ。一番のきっかけは、伊東さんがなぜ世田谷の奥にのこのこと行ったかということでした。われわれは、当時、筒井屋の主人が門田元書記生とは知らなかったものだから、対手の男がどうしても判らない。ところが、前に言ったように、われわれは伊東さんから、門田元書記生が東京にいるということだけは聞いていました。だから、その対手が多分門田であろうことは想像していたが、さて、彼がどこに居るか、さっぱり見当がつかない・・・あんたの郷里の佐賀にも人をやって調査させたが、あんたは外務省を辞めて実家にぶらぶらした直後、東京に出たそうですが、そこから死亡の噂を立てたそうですね。多分、この工作は、村尾芳生あたりがやったことだと思います。これも国籍を消して逃げた野上顕一郎のやり方とどこか似ている。われわれはあらゆる条件を考えて、伊藤さんが訪問した先が村尾と滝の二つの家でしかなかったことを頭に入れました。おかしいと思ったのは、この宿のことからですよ。不幸にして、われわれは門田元書記生の写真を一枚も持っていませんでした。だから、筒井屋の主人がそれだということは、最後の最後まで判らなかったのです」
「京都のホテルで村尾さんをピストルで狙撃したのは、君たちだったのか?」
「その通りです」
「ほう、何のために村尾さんを狙ったのだ?」
「そりゃあんたのもわかるでしょう。われわれは滝と村尾とが必ず何かを知っていると信じていた。ところが、滝は蓼科から逃げたまま、どこに行ったのかわからない。あの男はわれわれにすっかりおびえていた。もう一人は村尾だが、この男もわれわれの前に一度顔を見せただけで、あとは外務省という組織の中に隠れてしまった。われわれとしては、彼に本音を吐かさなければならない。それには、威嚇いかく以外になかったのです。そのテが一番対手に効き目がありますからね。村尾が変名で京都のMホテルに泊まるのを、われわれの機関員が前日にキャッチしていたのです。なに、あの男なんか射とうと思えば、脳天ぐらいは命中させましたよ。しかし、彼を殺すのが目的だはなかった。威すだけでよかったのです」
「やっぱり、ぼくの思っていた通りだったな」
「そうでしょう? あなたは何もかも知っていた。その知ったついでに、ここで野上がどこに居るかを教えてくれませんか?」」
「出来ないね」
門田元書記生は冷然と答えた。、
「君たちが知っている通り、野上さんとぼくとは、特別な関係があった。なるほど、野上さんは、君たちが想像したように病気ということになって、スイスから連合国の機関の中に入っていたが、これは、あくまでも日本の国民を不幸にしないための終戦工作だった・・・日本の敗戦は歴然として判っていたのだ。それをあくまでも無理いな戦争継続に持って行き、国民をいよいよ不幸にしたのは、伊東忠介中佐のような陸軍強硬派がいたからだ」
「すると、こちらの思った通り、あんたが野上を逃すのに手伝いをしたわけだな」
「そう取ってもらってもいいだろう。ぼくは野上さんと同じ意見だったからね。在外武官でも、海軍派の人とこっそり提携したのだ。また、君たちの言う獅子身中の虫である政府部内の高官との連絡は、この海軍側が暗号でやってくれていたのだ。もちろん、敵国逃亡が野上さん一人で出来る芸当ではない」
2022/12/19
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