~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (24-01)
車は横浜の市内に入った。天気がいいせいか、歩道に人が多い。が、東京から見ると車の数が少ないので、ずっと落ち着くのだ。
「ニューグランドは、久しぶりですわ」
久美子が添田の横から言った。今日は食事に誘うというので、いくぶん派手なよそおいになっていた。
── 急な話だった。添田が今日のことを言い出したのは、昨夜、久美子の家に来てからである。日曜日でもなかったが、添田の都合で、ぜひ今日横浜に遊びに行きたい、と申し込んだのである。勤めを持っている久美子は迷ったが、いつに似合わず、控え目な添田が今度は強引だった。
「ぼくの勝手ですが、明日の方がいいんです。先に延ばしたくないんですが」
孝子は傍から笑って、久美子をとりなした。
「せっかく、添田さんがああおしゃるんですから、あなたご一緒したらどう?」
「ええ、でも、勤め先にそう断わってないんですの」
「そいじゃ、明日の朝、電話で一日だけお休みを戴くようにお願いしたらどう。あなたは、まだ休暇が残ってるでしょう?」
「ええ」
「当然で申し訳ないですが、ぜひ、明日休んでいただきたいんです」
添田は熱心に希望を押しつけた。
「ニューグランドで食事をして、ずっとあの辺を歩いてみたいんです」
「珍しいわ。添田さんがそんなことをおしゃるなんて」
孝子は笑った。
「ぜひ、お供なさいよ」
孝子は添田をすでに他人とは考えていなかった。添田はこれまで久美子と二人だけで外に出たことはめったにない。そういう点では添田は奇妙なくらい遠慮勝ちだった。その彼が今度だけは不思議と自分の言葉に強いのである。
久美子は同意した。
「お母さまもお誘いしたら?」
と彼女が添田に言うと、
「いいえ、わたくしはいいのよ。恰度、明日はほかに出かけなければならない用事がありますから、あなたがた二人で行ってらっしょい」
孝子は微笑していた。
いつもの添田だったら、当然、久美子の言葉につづいて、孝子を誘うはずだった。それが今度は添田も黙っている。
添田は、実際は孝子を一緒に伴れて行きたかった。心の中ではどれだけ彼女を横浜に運びたかったことか。
そのことが不可能なのには二つの理由があった。
一つは、もし、孝子を伴れて行けば、対手が自分たちの眼の前に現れないかも知れないという懸念だった。
もう一つは、これは結果的に、孝子にとって残酷な仕打ちとなることだった。
車に乗っている今も、この迷いは昨夜からつづいて添田の心を動揺させている。
久美子だけは、光のあふれている海の一部がのぞく方へ愉し気な眼を向けていた。
「もうせん、お母さまと節子お姉さまとで、ニューグランドに来たことがありますの。五年ぐらい前になるかしら」
久美子は、明るい気持ちで話した。
「それからずっと行っていないんですの。あれから変わってますかしら?」
「そう変わってないでしょう。建物は前のままですから」
「食事の間に、始終、音楽が鳴ってましたわ。背の高い人がチェロを弾いていましたの。その音色がとても素敵で、まだそのときの曲目を憶えているんですぅ」
「ああいうところの楽団は、始終、入れ替えていますから、むろん、今度は別な人でしょう」
「愉しみだわ」
車は山下公園の横にかかった。広い通りの片側が公園の人工的な松林になっていて、反対側にホテルの高い建物が同じような建築物と列をつくっている。
晩秋の陽が建物の影を、柔らかだが、くっきりと地面に投げかけていた。
2022/12/20
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