~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (24-03)
添田彰一は、久美子の佇んでいる所に戻った。
ここに、おくの知った人が来てるんです。今、フロントに行くと、伝言がありました。すみませんが、ちょっと、その男に会ってきますから、ここで待っていていただけませんか?」
滝良精のメッセージは添田ひとりに遇うことを望んでいる。この意味は滝の口から何が話されるかわからないことだ。当然、久美子を滝の部屋に伴れて行けなかった。また滝のこの指示は久美子が一緒に此処に来ていることを承知の上でしているのだ。
久美子は素直にうなずいた。
「では、ごゆっくりしてらっしゃいませよ。わたくし、その間、階下したに降りて、ウィンドウでものぞいていますわ」
このホテルは、階下にいろいろな商品を並べている。主に外人客対手のスーヴニールだったから、きれいだし、陳列ケースの間を歩いて眺めても愉しめた。
「すみません。すぐ戻ります」
添田は久美子を階段の降り口まで見送った。彼女はワンピースの裾をゆるやかに、翻しながら、すんなりとした脚を一歩一歩下に運んで降りた。いかにも明るい姿だった。
添田はエレベーターに乗った。四階で降りて416号室の前に立った時、さすがに動悸が早鳴りした。添田は息を吸い込んでドアをノックした。
内側から低い応答があった。添田はドアの把手を廻した。
思いがけないことだったが、すぐ正面に滝良精が立っていた。ノックを聞いて、ここまで迎えに出たのだろうが、これが、きなり、対決の恰好になった。
「お邪魔します」
添田が敬礼すると、窓を背にしている加減で滝の顔は黒かったが、その逆光の中にも、これまでにない彼の表情を見る事が出来た。滝はあきらかに微笑しているのだった。
「いらっしゃい」
声まで柔かだった。
「君が来るのを待ってたんだよ」
添田に返辞を与えさせなかった。すぐに窓際の応接椅子に添田を坐らせた。
「久美子さは?」
いきなり、滝はそう訊いた。何もかも知っている訊き方だった。添田の予想に誤りはない。滝は確実に村尾芳生からの連絡を受けていたのだった。
「一緒に来ています」
「うむ、それで?」
階下したで待ってもらっていますが」
それにはちょっとうなずいて、
「君、ヴァンネードさんは、いま居ないよ」
いきなり告げて添田の顔をじっと見た。
ヴァンネード。──
添田は滝の動かない瞳を受け止めていた。五、六秒の沈黙があった。
「知っています。フロントでそう聞きましたから。どこに行かれたのですぅか?」
「散歩だ」
「散歩?」
滝がそれに答えようとした時、軽いノックが聞こえて、メイドが茶を運んで入った。客が来たのでサービスしてくれるのである。二人はばらばらにメイドの手許を眺めていた。自然と柔かい眼差しになった。茶は透明なまでに新鮮な黄色を見せている。底に粉のような茶が揺れながら沈んでいた。
2022/12/20
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