~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (24-03)
滝良精が顔を上げたのはメイドがドアの向うに消えてからだったが、視線は柔かいものになっていた。
「添田君」
滝は後輩に呼びかけた。
「君には、もう、わかっているだろうな、ヴァンネードさんふぁ舘かということが?」
一瞬添田の顔から背筋にかけて熱いものが走った。
「やっと知りました」
添田は全身を硬直させていた。
「そうだろう。もう、ぼくも匿さない。ヴァンネードさんは、あの人だ」
滝があの人・・・と入った時、彼の唇がかすかに痙攣けいれんしたようにみえた。そういえば、彼のたるんだ眼のふちも震えたようだった。
「長いこと、君もそれを知ろうとして苦労したね」
と滝は言った。
「ぼくは君がそれを知ろうとする努力を妨害してきた。それは、そうしなければならなかったからだ。今でも、君が新聞記者の資格だったら、ぼくはあくまでも君の前に立ち塞がるだろう。しかし、ぼくは最近になって君が久美子さんの将来の夫だということを知った。・・・ぼくは、記者としての君にではなく、野上家の家族になる君にすべてを打ち明けるよ」
添田は生唾ままづばを呑んだ。額に汗がふいて来そうだった。頭がぼんやりとかすんでくるように思われる。添田は両手を握りしめて、自分の脚から力が脱けるのに耐えた。
「念のために訊くが、君がここにあの人・・・を訪ねて来るとは孝子さんには言ってないだろうね?」
「言ってありません」
「そう」
滝は背中を椅子に倒してうなだれた。そのことでは滝にも苦悩があるのだ。
「久美子さんには、どう言ってある?」
「横浜に遊びに行くからと言ってついて来てもらいました。なだ、ヴァンネードさんの名前は出していません」
「そう」
滝は、その処置でいいというように背中を起こした。弱々しかった眼に、少し強い光がにじみ出た。
「添田君、あの人・・・は、今、観音崎に行っているよ」
「観音崎?」
浦賀人うらがの先だ。たった三十分前だから、今から行っても十分に会えるだろう」
「何のために、そんな所に行かれたのですか?」
「だから散歩だと言っている。目的はない。強いて言えば、日本の最後の一日を、日本らしい風景の中に立って過ごしたいというんだろうね」
「最後の一日ですって?」
添田が腰を浮かしそうになった。
「添田君、あの人・・・は、明日エールフランス機で日本を離れることになっている」
「滝さん」
添田は身体が震えた。
「いや、添田君、話はあとにしよう。久美子さんを早く観音崎にやることだね。ぐずぐず出来ない。あの人・・・も海を見ながら娘の来るのを待っているかも知れないからね・・・」
添田が椅子から無意識に起ち上がった時、滝良精が強い眼でしたから凝視した。
「君、あの人・・・は奥さんも一緒だよ」
2022/12/20
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