~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (24-04)
久美子は階下の店を見て廻っていた。添田が降りて来たとき、彼女はちょうど陳列ケースの中に白く光っている真珠をのぞいているところだった。
添田の跫音を聞いて彼女は眼を贅沢な商品からはなした。ここは昼間でも電灯を点けているのだが、添田を見た瞬間の顔が急に灯のように明るくなった。退屈そうにしていた姿勢が生々となった。
「お済みになりまして?」
頸を少しかしげて微笑ほほんだ。
添田は久美子の顔を正面から見るのが苦痛だった。自然と伏目になった。添田の視線にはケースの中の頸飾ネックレスが入った。
「話がまだつづいているんです」
あたりに客が居なかった。昼間のホテルのスーブニール店は閑散としている。女店員が椅子に坐って、本を読んでいた。
「ぼく、ここに泊まっている知人と偶然に会ったものだから、少し話さなければならなくなりました」
「あら、それじゃ、もっとお待ちしますわ」
「いえ、長引くんです。一、二時間ぐらいかかるでしょう」
「まあ、そんなに?」
「すみません・・・その間、待っていただきたいんです。しかし、こんな所では退屈でしょうから、この横浜の先に観音崎というところがあります。浦賀の少し先なんです。景色とがいいことはぼくも聞いていたんですが、自動車だと三、四十分くらいで行けそうなです。そこをご覧になっていたらどうです?」
久美子は気がすすまないふうだった。
「ぼくもご一緒すればいいんですが、話が長くなりそうなんです・・・こうしましょう。久美子さんは先にそこに行って下さい。ぼく、話が済み次第にあとから追っかけて行きます」
「でも」
久美子はうつ向いた。
「わたくし、ひとりで・・・」
「なに、ちっとも心細ないですよ。大勢行っていますからね。。今日は秋晴れのいい天気だし、人が」多い所です」
「わたくし、やっぱりここでお待ちしますわ。添田さん、わたくしにご遠慮なくお話しを済ませて下さいな」
久美子は知らない土地へ行くのを拒んだ。
「しかし、そりゃ大へんですよ、ぼくの話は二時間たっぷりかかりそうです。あなたに待っていただくと、ぼくの方が気になってしまいます」
「そう」
久美子はそれでやっとうなずいた。
「わたくしのことはお気になさらなくともいいんですけれど、でも、それでは添田さん、お話しが落ち着きませんわね」
「そうなんです。第一、このホテルだと待っている場所だってありませんよ。それに、久美子さんがその土地に行っているとわかれば、ぼくだって話を早く切り上げて、あとから追いつくという愉しみもありますから」
「どう行けばいいんでしょう?」
久美子は決心がついた。
「ホテルの前でタクシーを停めます。この辺の運転手ならよく知っていますから」
「そこには何がありますの?」
「灯台です。三浦みうら半島の東突端に当たるでしょうね。ちょうど油壺あぶらつぼあたりの反対側になります。すぐ前が千葉県です。ほら、まるい東京湾が南の方でくくられたようにすぼんでいるでしょう。その一番狭くなっている海が浦賀水道というんですが、景色がいいんだそうです・・・実は、横浜にお誘いしたのも、そこに行ってみるつもりでいたんです」
「わかりました。あとできっといらして下さいね」
「むろんですよ。済みません。そのつもりでこのホテルに入ったんじゃないのですが、偶然、知った人と出会ったばっかりにこんな結果になりました。そうだ、食事も向うで済ませて、帰りの夕食をこのホテルで、ということにしましょうか?」
「ええ」
添田は彼女の横に並びながら、よほどフランス人がその場所に居ることを彼女に説明しようかと思った。久美子の知らない人物ではない、京都の寺とホテルで、彼女が接触したことのあるフランス人なのだ。
しかし、その事実を添田が知っていることを彼女にどう説明出来るか。彼は久美子が観音崎に着くまで、ヴァンネード夫妻がそこにとどまっていることを祈るよりほかなかった。
2022/12/21
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