~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (24-06)
「添田君」
滝はパイプをくゆらせた。いかにも久美子のことは向うに・・・任せたといった様子だった。自然と表情にも声にも一段と落着きが出ていた。
動作もそうだ。静かに指先で新しい煙草をパイプに詰めている。
「村尾君い会って、彼から大体のことを聞いたそいうだね」
ちらりと眼を上げた。
「があ、しかし、全部ではありません」
「結構だ。全部を知る必要はない。君の想像だけでいいのだ」
「ぼくの想像で間違っていませんか?」
「いないだろう」
滝はあっさりと認めた。
「しかい、わからないことが一ぱいあります。まず、野上顕一郎さんが日本に帰って来たことです。いいえ、その気持ちはわかります。戦後十六年っています。正確に言うと、野上さんが戸籍を喪失してから十七年です。故国の土を踏みたかったに違いありません。むろん、よそながら自分の遺族・・に対面したかったと思います。出来れば、遺族・・に自分の存在を知られることなく会いたかったに違いないでしょう」
滝は返辞をしなかった。しかし、顔でそれを肯定していた。
「ぼくの想像を許して下さい・・・野上さんは日本に帰って来るにつけても、少なくともふるい友人二人には連絡をとったと思います、一人は村尾さんです。かつての部下ですからね。一人は滝さん、あなたでした」
「うむ」
滝は視線を窓にらした。秋の蠅は元の位置にいつくばっている。
「あなたは日本の大新聞社の特派員としてスイスにおられました。野上さんが死亡したのもその土地の病院でした。おそらく、野上書記官の死亡の公電は、村尾芳生氏がいた公使館から打たれたでしょう。しかし、もう一人プレスマンの協力があった。それがあなたです」
添田は、パイプをくわえている滝に真直ぐ眼を当てていた。
「野上さんの意志は、この旧い友人を通して遺族との接触を図りたかった。少なくとも、その便宜をつけてもらうつもりがあったと思います。もちろん、友情を信じての上のことですがね。ところが、思わぬ障害が出て来た。かつての陸軍武官伊東忠介中佐です。野上さんが不用意にも昔を懐かしんで歩いた寺に筆蹟を遺して来たためです。いや、野上さんのこの気持もわからなくはありません。おそらく若い時から歩いて来た日本の古い寺が、これで見納めだという気持があったのでしょう。そこで、せめて自分の名前を芳名帳に遺しておきたかった。そりゃよくわかるんです・・・だが、これが野上さんの災いになった。災いといってもふた通りです。一つは、めいの芦村節子さんに発見されて疑惑を持たれたことです。しかし、もっと悪いことがあった。伊東さんがそれに気づいてすぐに上京した事です・・・ぼくは村尾さんから聞いて初めてそれを知りましたが、伊東中佐は日本の勝利を最後まで信じていたそうですね。だから、もし野上さんが生きているとすれば、許しておけない売国奴というわけです。伊東中佐には、野上さんの死亡公表と、その生存とを二つ並べて、その真の姿がわかってきたに違いありません。伊東さんだってその公使館付武官として、さんざん、当時の各国間の謀略を見て来ていますからね・・・だから、伊東さんは上京すると、すぐに村尾さんやあなたの家に廻っています。おそらく、野上さんの生存をあなた方に念を押しに来たと思いますが」
これにも滝は否定しなかった。微かに、そしてゆっくりと顎を引いた。」
「野上さんの“死亡”んも真相は、調査してまわるうち、ぼくにも想像がつきました。ただ、ぼくにわからないというのは、この伊東中佐が、なぜ、世田谷の奥の淋しい所で殺されたかということです。知りたいのは、その原因と、誰が伊東中佐の頸を絞めたかということです。いいえ、ぼくは警視庁と同じ立場に立ってその犯人を捜しているわけじゃありません。犯人が逃げていても、逮捕されていても、それはぼくには関係のないことです。知りたいのは、伊東中佐に他を加えた人の名前です・・・伊東中佐を消してしまう立場にある人は、少なくとも三人います。一人は村尾さんです。一人はヴァンネードになってしまった野上さんです。一人はあなたです。しかし三人が犯人とは考えられない。もう一人いる。そのもう一人が誰かということです。滝さん。あなたならそれを知っている筈です」
「添田君」
滝はパイプを口から離した。沈んだ眼に奇異な光が滲み出た。添田は目付きの変化にぎょっとなった。
「その犯人は死んだよ」
添田にはその言葉がすぐに理解出来なかった。全く別な意味を滝が言ったように取った。自然と眼をいて話し手を見つめた。
2022/12/22
Next