~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (24-07)
「伊東忠介中佐を殺した男は、またほかの人間に殺された。しかも、その場所は、伊東君が命を落としたところだ」
今度ははっきりと添田の耳に言葉が入った。
「何ですって? もう一度おっしゃって下さい」
「死体の発見は、今朝の明け方だった。むろん、新聞には出ていない。今日の夕刊かもしれないね。しかし、ぼくには連絡があった。
「犯人が殺されたんですって? だ、だれにです? いいえ、殺された男です」
門田源一郎という男だ。君も当時の公使館の名簿を調べていたから、知っている名前だ」
「書記生!」
添田は叫んだ。
「そうだ、門田書記生だ」
添田はしびれたようになった。たしかに、それは行方不明になっている人物だった。一度は郷里での死亡を伝えられたが、調べてみると、彼は失踪している。
「現在は名前が変わっている。筒井源三郎だ。商売も違う。品川の駅前で筒井屋という旅館をやっている」
添田は混乱の中に突き落とされた。── 眼の前を眉毛の濃い、顴骨かんこつの出た人物がどういうわけかゆっくりとよぎった。淋しい貧弱な旅館の一間で話を交した男だった。
「途中の順序は、この際だから省略しよう」
と滝は言った。
「要するに、門田は野上さんの腹心だったし、野上さんの“死亡”を手伝った男だ・・・当時のスイスには、連合国側の情報活動の機関が設置されていた。野上さんは、日本が破壊される前に終戦に持ってゆくため、この機関と接触した。いや、見方によれば、その機関の手に野上さんが引っかかったというかも知れないが、断じてそんなことはない。ぼくが証明する」
「わかりました。あなたが野上さんの意志を受けて、その機関への橋渡しをしましたね?」
添田は、この先輩記者が英語に堪能たんのうであり、永い間在外特派員として極めて優秀だったことを思い出した。
「そう想像してくれて構わないだろう。ぼくはスイスに居る間、アメリカの諜報機関のお偉方とゴルフをしていた」
「アレン・ダレス?」
あまりにも有名なアメリカ大統領直属のCIA長官の名前が添田の口をついて出た。たしかに、この高名な情報工作の最高責任者は、戦時にはスイスに居据わっていたはずだ。
「そういう名前かも知れない。しかし、添田君。名前はどっちでもいいのだ。ウィンストン・チャーチルだって構わない。要するに、野上さんに気持ちは、国籍を捨て、妻子を捨て、己の日本人たることをも喪失してまで、日本を破壊の一歩手前から救いたかったのだ。見方によれば、獅子身中の虫とも言えよう。連合国側は彼の接触を受け入れた。なにしろ日本がどこまで抵抗するか見当がつかなかったからね。連合国側としても出来るだけ損害を少なくして対日作戦を終結したかった。野上さんの行動は、旧い日本精神では解釈出来ない。こりゃア後世の批評につほかはないね」
滝は肘掛ひじかけに疲れたように身体を傾けた。
「伊東中佐は、野上さんの生存を確かめるために気違いのようになった」
と滝良精は、ときどき、額を指でみながらつづけた。
2022/12/23
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