~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (24-08)
「彼は、かつての公使館時代の同僚である書記生の門田君が品川駅で筒井屋という旅館をやっていることを知っていた。これはぼくも知らないことだ。・・・だから、伊東は門田君の家に泊まって、しきりと野上さんの死亡前後の状態を訊いたと思う。なにしろ、門田君は野上さんに付き添ってスイスの病院に行ってるからね。これはぼくの想像というより門田君が昨日手紙を寄越してすっかり白状したことだ。恐らく彼が殺される直前の投函だろうね。・・・伊東中佐は、公使館時代から日本精神に狂信的な男だった。のみならず、彼は未だ日本陸軍の再興を信じている。いや、笑いごとじゃない。そういう連中がまだ日本には居るのだ。伊東君は門田君を問い詰めて行った。われわれは適当に伊東君を追い返したが、なにしろ、門田君は最後まで野上さんを看取みとっていたというので、その追及も激しかった。門田君の話だと、伊東は奈良の寺から切り取って来た芳名帳を門田君に突き付けたそうだ。野上さんの筆蹟は、誰も真似することの出来ない特異なものだ。二人の間に、一晩中、ひそかだが激しい問答があった。遂に、門田君は伊東の詰問に答えられなくなった。このとき初めて、門田君は伊東君に対して殺意を持ったそうだ。この男がいま日本に来ている野上さんの所在を突き止めたら、どんなことになるかわからないと思ってね」
「世田谷の奥に伴れて行ったのは、門田さんですか?」
「そうだ、野上さんの隠れに案内すると言って、夜、タクシーを何度も替えて現場近くに行った。近いといっても、あとで足がつくことをおそれ、相当の距離を徒歩で歩いたそうだ。幸い、伊東君は東京に不案内な男だ。興奮している彼は、何の疑念もはさまずに門田君の横に並んで、あの現場まで来たそうだよ」
「そうですか」
添田は全身の力が抜けた。
「では、その門田さんを殺したのは?」
「ある組織だ。こういう言い方しかぼくには出来ない。その組織は、狂信的な伊東元中佐に」つながる線だった。門田君が伊東を消したのは、もし、野上さんの生存が確実になった場合、この行動的な連中の動きを怖れたからだ。理屈のわかる対手ではない。いわゆる問答無用組織だからね」
「滝さんもその連中の訪問を受けましたね?」
「受けた」
滝は自然に答えた。
「あれは、伊東中佐が殺されたことで、その組織の連中がしきりとぎ廻りはじめたからだ。殊に、久美子さんのデッサンをとっていた笹島画伯が過失死を遂げてから、ぼくは余計に逃避したかった」
「画伯は過失死ですか」
「はっきりと睡眠薬の飲み過ぎと言っておこう。しかし、当時のぼくはそうは取らなかった。やはり組織が画伯を殺したものと信じた。理由はある。画伯が久美子さんをモデルにしてデッサンしている間、彼女の父親がそこに居たからね」
「同居?」
「と言っては少し間違ってるかもしれないが、要するに、通いの庭男として自分の娘をよそながら見つづけていたのだ。こりゃ村尾君の発案でね。画伯と親しくしていたぼくが、画伯に久美子さんのことを頼んだ。その間、事情を知らないままに画伯はぼくの頼みを引き受けて、通いのばあやも断わっていた。お蔭で野上さんはゆっくりと、自分の娘に対面することが出来た。画伯のデッサンも、あとで野上さんが貰って、外国に帰るつもりにしていた。ところが、画伯の不慮の死が突然やって来た。野上さんの予期しないことさ。野上さんは狼狽したに違いない。ぐずぐずして自分が日本の警察に調べられる立場になってはならないのだ。咄嗟とっさに久美子さんのデッサンを持って遁げた」
「山本千代子の名前で、久美子さんを京都に呼び寄せたのは?」
添田はすぐ訊いた。
「それは野上さんの、現在の奥さんがやったことだ。野上さんの気持を察してのことだった。野上さんはあとで聞いたらしい。そうだ、そういえば、いつか、歌舞伎座でも野上さんは自分の遺族・・・生きながらの遺族さ、妻と娘を見ている。だが、僅かなぬすだけでは満足出来なかった。笹島画伯への工作も、久美子さんを長い間みつめたかったからなのだ。毎日毎日ね。だが、本当は、娘を話をしたかったのは言うまでもない」
「わかります」
添田はうなずいた。
2022/12/23
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