~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (24-09)
「野上さんの奥さんはフランス人だが、よく出来た人だ。理解もある。教養もある。野上さんの立場をすっかり自分の気持の中に融け込ませている婦人だ。山本千代子の手紙は、町のタイプ屋に打たせたんだそうだ。原稿は通訳の人に頼んで書いてもらったという。あとは娘が来るのをひたすら待っていた・・・ところが、久美子さんは一人では来なかった。妙な付き添いがその背後でうろうろしていた。これで父娘おやこの対面はおじゃんさ」
「そうでしたか」
添田は溜息ためいきをついた。
「しかし、まだチャンスは残されていた。久美子さんが苔寺へ廻った。落胆らくたんした野上さんはMホテルに一人で帰ったが、奥さんだけは偶然に苔寺に来ていた。そこで久美子さんを、つまり、自分たちが南禅寺に呼びつけた久美子さんをもう一度見たのだ。訳を言うと、南禅寺では、ヴァンネード夫妻はほかの外人観光客に紛れ込んでこっそりと行ったらしいがね。夫人は苔寺で久美子さんの写真を撮影することに成功した。これは何よりの土産だった」
「Mホテルでは?」
「これは思いがけないことだった。まさか、久美子さんがそのホテルに泊まろうとはね・・・実を言うと、ぼくらはMホテルで野上さんと久しぶりに会う約束になっていた。村尾君も東京からこっそりと飛行機で行ったはずだ。ぼくも蓼科から中央線に乗って名古屋廻りで京都に入った。人間、いろいろな運命の糸が或る時期に奇妙に集まるものだ。まず、ホテルに久美子さんが泊まっていることを知ったのは夫人の方だった。夫人の知らせで野上さんは娘の声が聞きたくなった。何度も久美子さんの部屋に電話をした」
「わかりました。そりゃ久美子さんからも聞いています。しかし、間違いをよそおって、失礼いたしましたと言って切ったそうです」
「野上さんは娘に話しかける言葉がなかったのだ。君、どういうふうに話すかね? まさか、見ず知らずの男が天気の挨拶でもあるまい。野上さんは電話を二、三度かけて、久美子さんが、もしもし、もしもし、という声だけを聞いて満足しなければならなかった。もっとも、その前に通訳を通して晩餐ばんさんには招待している。しかし、幸か不幸か、久美子さんの方でそれを断わった。断わってよかったのかも知れない。その晩のことだ。村尾君が射たれたのは」
「あれは誰だったのですか?」
「例の連中さ、執拗しつように野上さんの足跡を嗅ぎながら追って来たのだ」
「なぜ、村尾さんを射つ必要があるます?」
「警告だ。彼らはそう思っているのだろうが、事実はおどかしだな。だから、村尾君の命は助けてやったと思っているのだろう」
「なぜ、そうする必要があったんです? その隣の部屋には、当の本人が泊まっていたじゃありませんか。どうして、そこをねらわなかったんですか?」
「わからなかったんだよ。正確にはまだ野上さんがフランス人になっているとは彼らは知らなかった。何かを嗅いでは来たが、まだ本当の姿を突き止めてはいなかったのだ。Mホテルには、村尾君も入って来た。ぼくもあとから到着した。これは臭い、とかねて村尾君のあとをかぎ廻っていた連中は思ったの違いない。だから、村尾君を射てば、狙う対手が出て来るかも知れないと考えたんだろうね。また、当人が姿をその場に出さなくとも、この狙撃事件で一つのうねりが起こる。そのうねりの中からぽかりと野上さんの姿が浮かび上がって来ると期待したかも知れない」
添田はしばらく黙った。
「それで、野上さんはこれからどうするんです?」
添田は滝を喰いつくように見た。
{フランスに帰るかも知れないが、その前に、本人はチュニジアあたりの砂漠をしばらく歩いてみたいとも言っていた」
「砂漠ですって?」
「野上さんにとっては、パリも砂漠も同じことさ。地球上のどこへ行っても、彼には荒野しかない。結局、国籍を失った男だからね。いや、国籍だけじゃない。自分の生命を十七年前に喪失した男だ。彼にとっては、地球そのものが荒野さ」
添田は腕時計を見た。久美子がホテルの前を車で出発して四十分経っていた。
2022/12/23
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