~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (25-01)
トンネルを抜けると灌木かんぼくの密生林だった。道は、この林と、山の斜面の間に白く伸びている。
スポーツカーが、久美子の乗っている車を追い越して行った。林は黄ばんでいる。海がひらけてきた。
アメリカの旗を付けた白いボートが見えていた。甲板かんぱんに並んだ水兵の顔までわかりそうだった
「灯台のあるところは、もっと遠いんですか?」
久美子が運転手に訊くと、
「そのはなを廻ったところです」
という返辞だった。
夏場の海水浴場だったらしい跡が残っている。小屋が壊れかけていて、まだジュースの空缶あきかんなどが積まれていた。
突き出たみさきを道が旋回すると、小さな広場に出た。バス、自家用車、タクシーなどがモータープールに並んでいる。そのすぐ横に洒落しゃれたレストハウスがあった。久美子が想像して来た以上に開けているのだ。
「ここから降りて歩いて下さい」
運転手はドアを開けて言った。
「灯台までは、徒歩で十二、三歩分です」
車はそのまま待たせることにした。
道は急に狭くなっている。だが、ずっと海岸沿いだった。いい天気なので、行楽客も多かった。久美子が歩いていると、何人もの男女とこみちで往き遇った。若い人たちは上衣を脱いで、白いシャツになっている。歩くと、なるほど、汗が出そうなくらい暖かい日和ひよりだった。
風が潮の香りを運んで来る。
すぐ崖の上に小さなユースホステルがあった。白い柵の中に青い万年青おもとが伸びている。建物は赤い煉瓦積みになっていた。これもこの風景にはしっくりと似合った。久美子はひとり愉しくなって来た。来てよかったと思う。吸い込む空気も潮の香の混じっただし、歩くことが嬉しくなった。
灯台はまだ見えなかった。もう一つの岬を廻らねばならない。径はそこからつるやかな勾配になっていた。
斜面の上が古い林なのである。見上げると、樹にカズラが捲きついている。湘南地方の尖端せんたんに当たるこの地方は、フウトウカズラ、サネカズラ、シイなどの亜熱帯海岸植物が群生している。
勾配の頂点を下りると、突然、眼の前に灯台が大きく入った。それは海に迫った崖の上に建っていた。陽を受けた灯台の白堊はくあが青い空にくっきりと輝き出ていた。
すぐ下の海岸は、浸蝕岩しんしょくがんが茶色っぽい肌を見せている。板をジグザグに積み上げたような恰好で海にさし出ていた。
久美子は、そこにしばらく立って見とれた。殆どの人がこの場所で感心するとみえて、彼女の背後にもあとから来た客が佇んでいる。
人といえば、なぎさに近い岩礁の上にも、ひさしのように突き出た岩の上にも、二、三人の姿が見えた。径は灯台下の崖を廻って、さらに奥へつづくのである。その径にも若い人たちが列を組んで歩いていた。
久美子は脚を渚の方に運んだ。前が房州の連山になっている。しかし、海を隔てているとは思えなかった。灯台下の岬を廻った地つづきのような感じだった。山のひだや、山崩れがあったらしい茶色の地肌まで、くっきりろ見えるのだった。
一段と高い山の頂に雲が動いてる。
久美子は、岩の上を注意して歩いた。浸蝕された岩は、至る処に火山岩のような孔をつくっていた。
海の水が押し寄せて来て岩と岩との間に流れ込んだ。それが忽ち川のようになって元へ逆流するのだった。かにっていた潮の匂いが強い。
久美子は、ふと、どこかで自分に注がれている視線を感じた。自分の立っている正面の岩ではない。そこは、若い二人が写真を撮り合っている。
彼女は視線を移した。
黒っぽい服装をした背の高い婦人が、かなりな距離に立っていた。今まで久美子が気が付かなかったのは、その外国婦人が彼女のあとからその場に到着したからである。黄色い髪が明るい陽射しを受けて白いほのおに見えた。
久美子はあっと思った。
京都で遇ったフランス婦人だとすぐにわかった。向うでもそれを覚ったらあいい。外国人らしい身振りで大きく手を振った。
2022/12/24
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