~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (25-02)
久美子は歩いた。フランス婦人の背景に、灯台の建っている断崖がある。崖にもさまざまな樹がおい茂っていた。灯台に上る石段が、婦人の背中のづぐうしろにあった。この暗いまでに濃い色が、婦人の黄色い髪を浮き上がらせていた。
今日はボンジュールお嬢さんマドモアゼル
婦人の方から言葉を投げかけた。顔いっぱいに微笑がひろがっていた。青い瞳が真直ぐに久美子を見つめている。
今日はボンジュール奥さんマダム
久美子はフランス語で話しかけた。
「京都から、いつ、こちらに廻っていらっしゃいましたか」
「四、五日前です」
婦人はにこにこしていた。歯ならびのきれいな人だった。柔かい髪が風に吹かれて震えている。
「ここでお嬢さんに遇おうとは思いませんでしたわ。ほんとに素敵です」
「わたくしも同じですわ」
久美子は、苔寺で自分の写真を撮ってくれたこに婦人の姿を思い浮かべた。すると、彼女の背景に青いかえでの下にひろがっていたさまざまな厚い苔が鮮烈せんれつな色で見えて来るのだった。
「お嬢さんの写真は、きれいに撮れました。わたくし、大事にして、日本の最も懐かしい思い出にします」
「奥さまのお役に立って、わたくしも嬉しく思います」
フランス婦人は口の中でつぶやいた。
「奇蹟ですわ」
そう言ってるのだった。
「たしか、南禅寺でもお見かけしましたわね。苔寺のあとはMホテルでしたわ。そして、今日は、思いがけなく、ここであなたとお遇いしました。素晴らしい奇蹟です」
婦人の趣味は、どちらかというと、地味に見受けられた。色彩も外国人の風習と違って、むしろ日本人の感覚に近い、柔らかな中間色で統一されているのだった。
「お嬢さんは、ここに一人でいらしたんですか?」
婦人は久美子にいた。
「はい、そうです」
「やはり、この海を見にいらしたのですか?」
「そいうなんです。とてもいい景色だと聞いていましたので」
「ほんとにいい景色です。京都も素晴らしかったが、ここも素敵です」
婦人は青い瞳を海に向けた。折から、大きな貨物船がゆっくりと水道を上って来ているところだった。房州の山の一部に陽が当たって、そこだけが照明を当てたように色が鮮やかになった。
「わたくし、主人と一緒に来ていますの」
フランス婦人が言った。
「え?」
見上げると、婦人のバラ色の頬に、いかにも嬉し気な微笑が出ていた。
「ご紹介します、お嬢さん」
止める間もなかった。婦人の背の高い姿が久美子の傍から二、三歩離れた。これはうしろに向って合図をするためだとわかった。
2022/12/24
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