~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (25-03)
久美子の眼に、ゆっくりとこちらに歩いて来る黒眼鏡の老紳士の姿が映った。髪のほとんどが白かった。しかし、顔は日本人そっくりだった。いや、この顔だったら、久美子も南禅寺で知っている。方丈ほうじょうの広い縁に、こ夫人と一緒に腰を下ろして、庭の石組みを眺めていた。ほかにも外国人の観光客がそこに居たが、この紳士の横顔は、庭の美しさにあきれたようになっていたのだ。今でも、その白い砂が眼に残っている。
久美子は、最初に見た時は、その人がスペイン系の男ではないかと感じたのだが、今、紳士がこちらに歩いて来る顔を見ると、明らかにそれは日本人だとわかった。日本人以外にはこんな落ち着いた憂鬱気な表情はしない。
しかし、紳士は久美子の前に来ると、黒い眼鏡の奥からやさしい眼をなげかけた。
夫人はなぜか、久美子を夫に紹介しなかった。久美子はちょっと戸惑とまどったが、
今日はボンジュール
と紳士に挨拶した。
今日はボンジュールお嬢さんマドモアゼル
老紳士は返した。きれいな発音だった。
「フランス語がお上手ですね」
紳士は微笑しながら久美子のすぐ近くに並んだ。今まで夫人が居た場所である。
夫人が何か思いついたらしく、夫に小声で話しかけた。久美子の耳にも、夫人が灯台に上って来たいのだということがわかった。気を付けて行くがいい、と夫は妻に答えた。
「じゃ、あとで」
夫人は久美子に小さく手を振った。
なぜ、あの夫人は夫だけをここに残したのだろうか。見方によっては、この夫人とは思えない無作法な行動だった。
「海へ行きましょう」
紳士は、突然、日本語で言った。
「そうだ、あの岩がいい、あすこまで一緒に行ってみませんか?」
指した方向は海が白い泡を立てているところだった。
足もとに波が砕けていた。白い泡が揺れている部分だけ海の色が違う。透き通るような緑色だった。
見ると、下の方に突き出た岩に、一人の男が立って釣竿を構えていた。
「疲れた」
と紳士は言った。
「失礼して、ここに掛けることにします」
無造作に、岩の上に腰を下ろしたものである。どっこいしょ、と自分で言った。わざと年寄らしい磊落らいらくさを見せたのだが、これはやはり日本人のしぐさなのだ。
「掛けませんか?」
老紳士はふいと顔をじ向けて、久美子を見上げた。黒眼鏡だが、実に人懐かしげな表情だった。
「そこがいい」
と自分で場所を決めて、ポケットからハンカチを取り出し、その上にひろげた。
「すみません」
久美子は恐縮した。
「なに、いつまでも立っていると疲れます。掛けなさい」
久美子は不思議な胸のときめきを覚えた。たったいま口を利いたばかりの紳士だったが、なぜか、そこに言いようのない親しさをおぼえた。節子の夫芦村亮一にも、これほどの親しさを感じない。いわば、この老紳士のもっている年齢的な雰囲気と、その風貌によるものだろうか。顔には深い皺が多かった。
2022/12/25
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