~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅸ』 ~ ~

 
== 『 球形の荒野 (下) 』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 文 芸 春 秋
 
 
 
 
 
球形の荒野 (25-04)
「失礼します」
久美子は素直に紳士の敷いてくれたハンカチの上に坐った。風がときどき波の飛沫しぶきを運んだ。
「わたくし」
と久美子は自分の名前を口に出さないわけにはいかなかった。
「野上久美子と申します」
「そう」
紳士は深くうなずいた。黒眼鏡をじっと海の方に向けたままだったが、その名前を全身で受け入れているようだった。
雲が動いて、海の色を一部変えている。
「・・・・いい名前ですね」
紳士は言った。
「そうだ、わたしの名前を言わなければならない。わたしはヴァンネードという名前です」
久美子は、その外国人名と、この紳士とがすぐに結び付かなかった。ちがった人の名乗りを聞いたような感じだった。
フランス名だが、この人は、その父親か、母親かが日本人だったに違いない。そして、永い間、日本の教育を受けて来た人であろう。いや、日本人だって、これほどの教養を感じさせる人物は、そうザラにいないと思った。やはり、フランス人としての生活がそのあとに長く加わったせいに違いないと考えた。
どう考えても、これは日本人なのだ。
「不思議そうに見ていますね」
ヴァンネード氏の横顔が、それと気づいたか、ほほえんだ。
「誰でもぼくを日本人だと思います。いや、そう思われることは当然ですがね」
「やはり永い間、日本で?」
「そうなんです」
フランス人紳士はうなずいた。
「日本の大学を出ましてね。それまでもずっと日本でしたが」
やはりそうだった。だが、この老紳士の日本語を聞いていると、純粋の東京弁なのだ。外国人としてのぎこちなさは少しもない。日本語がこの紳士の皮膚になっていた。
紳士は背を丸めていた。この恰好も日本の老人そのままの姿勢なのだ。日向ぼっこしながら、縁側に坐って盆栽化何かを眺めている、それと同じ姿だった。
しかし、紳士の横顔には黒眼鏡をかけているせいか、別な厳しさがあた。決して盆栽を見ている眼ではない。何かを独りで考えて見詰めているような、沈んだ厳しさがあった。そういえば、この紳士の身体全体に暗い雰囲気がある。蒼い海にむかってぽつんと坐っている姿に、暗い孤独が感じられた。
久美子は話のつづきが出来なかった。
彼女は、ふと、南禅寺の方丈の縁側に腰掛けて庭を見ている同じ姿を見出した。あのときも、たしかに、この恰好だった。
「お嬢さん」
紳士は海に対してぼそりと声を出した。
「お母さまはお元気ですか?」
声は少ししわがれていた。
「ええ、お蔭さまで」
と自分も、日本人の年配者に話しかける言葉になっていた。
「そう、そりゃいい・・・お母さまも、あなたのようなお嬢さんがいると、どんなにかお喜びだろう」
久美子は黙って軽く頭を下げた。── しかし、ふと、妙なことに気づいた。なぜ、この老紳士は母だけのことに触れるのであろうか。普通なら、この場合、ご両親は、と訊くはずなのだ。
「どこかに勤めてらっしゃるんですか?」
「はい」
久美子が勤め先を答えると、
「そりゃ結構」
と上品な顎をひいた。
「お嬢さんの年ごろだと、結婚も間近いでしょうね?」
久美子はほほえんだ。はじめての挨拶には、少し話が立ち入りすぎていた。しかし、久美子はそれが少しも気にならなかった。心がとがめないというのはどういうことだろうか。この老紳士の持つ不思議な親しみからきているとしか思えなかった。
「そりゃお母さまも二重のお喜びですね」
話はずっと前から知り合った同士の会話になっていた。が、久美子には不思議と抵抗がないのだ。いや、それよりも、この年配の紳士の雰囲気に自分が素直に溶け込んでゆけるのだった。
2022/12/25
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