~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
将軍暗殺 Prt-03
七月も半ばを過ぎた蒸し暑い夜であった。眼の前に二人の僧衣の男が平伏した後、先程より座りつづけている。。頭を丸めてはいるが、僧侶でないことぐらいは覚慶にもわかった。
一人は大柄な体つきであり、いかにも武芸で鍛え上げたというたくましい二の腕が、寸たらずば僧衣からはみ出していた。歳は己より二、三才上であろうか。もう一人はややそれより小柄であり、目尻の皺が人のよさを感じさせる三十半ばの男であった。
大柄な男を細川藤孝ふじたか、もう一人は一色いっしき 藤長ふじながと名乗っている。ともに足利幕府の要職を占める姓であり、将軍義輝の近臣であったという。
「将軍家の御無念この上もござりませぬ」
兄義輝、母慶寿院けいじゅいんの死と、弟周蒿の最後のもようを涙とともに語りおえた一色藤長は、そう言葉を結んだ。
聞いていて覚慶も、話の途中からこみあげてくるものをとどめようもない。おそらく一色藤長の言う通り、兄の無念はいかばかりであったろうか。覚慶は涙をにじませた瞳で二人の男を交互に見つめた。
「さりながら」
そのひとみを受けて、細川藤孝が辺りをはばかるようにやや声をひそめ、
「悔やんでばかりでもせんなきこと。このままでは三好、松永ずれの策略どおり将軍家の血筋はゆがめらrてしまいまする。すでに彼らは本国阿波あわに養育していた足利の支流義親殿を将軍に立てるべく動いておりまする。ここはなんとしても足利の正当なる血筋であられる覚慶様にお立ちになってもらわねば、尊氏たかうじ公以来の名門足利の天下は滅びかねませぬ。さらには母上様、兄上様、弟君のご無念を御晴らし下されたく、我ら両名罷り越したる次第でござる」
「なにとぞ」
と、一色藤長も覚慶の顔を仰いで後、うやうやしく平伏した。
覚慶はフッと人い太い息を吐いた後、とまどうような瞳の色をうかべた。還俗げんぞくして将軍の地位につけという。なるほど、源氏の正当なる血はもはや自分にしか残ってはいない。しかし覚慶はもの心ついてより二十幾年を僧の身ですごしている。武家の血が流れているだけで、いまさらそれに戻れと言ったとて出来ないことはわかっていた。
「さりとて」
と、覚慶はそれが癖の大きな鼻の頭を指先でつまみながら、自分にはもはや武家はふさわしくないと、すまなさそうな表情を二人に見せた。
が、その言葉に動ずる色を見せず、細川藤孝が睨むような視線を送った。
「何度も申しますように、源氏の正当なる血は覚慶様とりほかには残っておりませぬ。血筋は力でございまする。三好・松永がそれを指をくわえて見逃すはずがありませぬ。今は包囲するだけに留めてはおりまするが、必ずや覚慶様の身に害を及ぼして来るは火を見るよりも明らか。彼らはもはや将軍家を殺し、なりふりかまわずになっておりまする。将軍位につかれることはともかくとしても、先ず身を安んじることが先決でござりまするぞ」
幾日も怯えて来た不安が、言葉に出されると覚慶の身にひしひしと思い出されて来る。朝倉の言葉など悪逆非道の三好・松永なら、今に無視すると細川藤孝は語気強く言った。
「この包囲じゃ、彼らの手からはとてものことに逃れることはかなわぬ」
「されば、我ら両名、命にかえてかならずやお守りうたす所存。源家の正当なる血筋を絶やさぬことこそ、我らが亡き将軍への供養とも思うておりまするほどに」
一色藤長がやんわりと細川藤孝にかわって語をついだ。
ふたたび溜め息のようなものが覚慶から洩れた。
しきりに覚慶は尾翼を指先でつまみつづける。
「迷うておる時ではござりませぬ。一刻も急がれることが肝要。手立てはすべて我らの内にありますれば、なにとぞご決断下さいますように」
ささやくように細川藤孝が言い、
「なにとぞ」
と、一色藤長がふたたび深々と頭を下げ、
「今宵は、これにて」
と、なお即決を促そうとする細川藤孝を目で押さえて座を立った。
二人が消えたその後も、覚慶は彼らが座していた円座の上をしばらくはとまどいの眼差しで見詰めつづけていた。
2023/03/24
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