~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
将軍暗殺 Prt-04
七月二十八日。この日をもって覚慶の人生は一変する。
昼を過ぎて、朝からの雨は小降りとなっていた。
包囲の三好勢にとってはすでに顔見知りの医師が、この日も供を従えて覚慶を見舞っていたが、その供こそが一色藤長であった。
「けんかじゃ、けんかじゃ」とあたりが薄暗くなった頃に、急に寺の外がそんな声で騒がしくなっていた。
「お急ぎ下されますように、好機でござりまする」
一色藤長は己が着ていたものをためらう暇も与えず覚慶に着せかけ、逃亡をうながした。騒ぎに紛れ覚慶の姿が消えたのは、その直後であった。
三好勢の包囲をくぐり抜けることに成功した覚慶には、すでに細川藤孝と和田わだ惟政これまさが提灯に火をともし、手の者に駕籠をかかせて待機していた。ひと騒ぎを起こして来た二人は、大汗を額ににじませている。細川藤孝が荒い息の中からこれより和田惟政の居城油日あぶらびにまで向いますると告げ、あわただしく駕籠に身を入れた覚慶をみさだめると、先頭に立つ惟政につづいて小走りで駆け、駕籠脇を一色藤長も息を荒げて走った。奈良を抜け、柳生に入ると道は険しい上り坂となる。雨は相変わらずしとしとと降ってはいるが、ここまで来ればまず三好の手からは逃れたと言えた。一行はやっと足をゆるめ、笠置にむかう山峡の前途をみつめた。道は幾重にもまがって深い森がどこまでもつづいている。覚慶はときどき駕籠の垂をあげては、闇の外を伺い見た。が、見えるものと言えば、惟政の提灯一つが小雨の中でかすかに揺れているばかりである。心細さばかりが胸の中にわき上がっていた。
「どのあたりであろうかの」
「もう間もなく笠置を抜けるところであとうかと心得まするが」
駕籠の脇を歩む一色藤長が身をかがませるようにして答えていた。
事実、木津川の深い渓谷の流れの音が、耳をむませば聞こえて来る。谷川の水音は、さらに覚慶の心をこころもとなくさせていた。
伊賀を経て油日に到着した時は、もう朝の陽がさしはじめる頃となっていた。
油目村の和田館では、すでに惟政の指図により門前には篝火が焚かれ、多くの郎等たちが出迎えている。
近江守護六角氏に属する和田氏は、加賀武士のなかでも名家であり、瀑布の供衆をつとめたこともある。惟政が覚慶を迎えるについても、その六角承禎じょうていの意を受けていた。近江観音寺城の六角承禎は管領職を務めたこともあって、一時は義輝を助けて三好側と敵対したこともあった。義輝が死んだ今、次の将軍に最も近い位置にある覚慶の身柄を手の内に持つことは、この後何かと有利になると六角承禎は踏んでいた。
とにかく、一行は疲れた身をこの和田館でやっと落着かせた。
「ここまでは三好の手も及びませねば、御心やすくおとどまり下されますように」
仮眠をとりやや疲れも取れた昼すぎに、惟政が形を改め覚慶主従の前に平伏した。
「なにはともあれ、惟政殿には大義でござった。この後も覚慶様の御身大切を心がけて下され謫、この一色藤長よりも御頼み申す」
「して、奈良の一乗院では今頃は三好勢もうろたえているところでござろうて」
数珠をつまぐりながらなにやら落着かぬ覚慶の姿を目の端に入れ、細川藤孝が不適な笑いを見せて言った。
「されば、すでに「先ほど手の者の帰りました報告によれば、三好勢は今もって覚慶様のゆくえを知らざる由にござりまする。いずれはわかろうかと思いまするが、この険しい山中にありまする甲賀の里に、おいそれとは三好勢でも踏み込めませぬし、六角承禎様も三好の動きにただならぬ時は即座に兵を動員される心づもりでございまする」
「心強いことじゃ」
もう一度細川藤孝は磊落な笑いをひびかせ、
「この後は、一日も早く覚慶様が還俗をなさり、将軍位につかれることを願われるばかりぞ」
覚慶は藤長・藤孝からゆっくりと瞳を和田惟政に移し、
「大義じゃ」
と、ひとこと言葉を洩らしはしたが、表情は途方に暮れた浮かない顔であった。
和田館は惟政も言っているように、屋敷からは北に遠く比叡山が聳え、ひるがえって、三上山・観音山・八幡山が望まれた。真夏の館は一日中蝉の声で包まれ、覚慶はその蝉の声と和するように、終日居間に閉じ籠っては念仏を誦し、一色藤長の意を受けて惟政が気を利かせて差し出した、とよという侍女には目もくらなかった。
2023/03/25
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