~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
将軍暗殺 Prt-01
永禄八年。当時、都は三好三人衆といわれる三好長逸ながゆき、三好政康まさやす岩成主税助友通いわなりちからのすけともみちと、三好の近習頭からにのあがってきた松永秀久によって牛耳られていた。

「何事かの」
その夜、奈良興福寺一乗院門跡もんぜき覚慶かくけいが小姓を呼びつけて、首をかしげた。ほとんどそれと同時に他の僧たちが、あわただしく覚慶の居間に駆け込んでいた。
「寺のまわりを、おびただしい兵がとりまいておりまする」
軍勢と聞いても覚慶にはピンとくるものがない。将軍足利義晴よしはるの次男として生まれはしたが、四才にしてすでに興福寺一乗院に入室させられ、二十四年という年月を僧の身として過して来ている。覚慶の母は近衛尚通このえひさみちむすめである。一乗院は南北朝の頃より、その近衛家の支配下にあった。当時、金のなかった瀑布は将軍の子を養育することが出来ず、出家という手段で養育を寺にゆだねた。
覚慶の姉は京都知恩院ちおんいんに、そして弟は鹿苑寺ろくおんじに。
門跡覚誉かくよの弟子として二十幾年僧の修業を積んだ覚慶は、永禄五年、覚誉の死とともにその跡を継ぎ、権少僧都から、やがては寺の法燈ほうとうを守ってゆく別当べっとうにもなろうとしていた。
「ここは一乗院じゃ、何かの間違いであろうゆえ、そうそう立ち退くように言うてやりなされ」
寺には、僧兵たちもかなりの数は居る。大柄な覚慶は動作もおっとりとしてみえ、この時点、まだ門跡としてのゆとりをみせていた。
「三好様の軍勢でございまするが、立ち退く気配はまったくありませぬ」
緊張してひきつった表情の者たちの声に、やっと覚慶は事態の容易ならざることをさとり、眉間に深い縦皺たてじわをよせた。
「寺の者は一歩も外に出てはならぬと、兵どもが申して居りまする」
つぎつぎともたらされて来る表の騒動に、覚慶は青ざめさせた顔を今度は怒りで朱に染めた三好勢では僧兵たちの力をもってしても防ぎきれるものではない。とにかく、いかなる目的で一乗院を囲んでいるかを知る必要があった。すぐに、使いを寺の表に走らせたが、
「痕跡覚慶殿を御守護するためでござるわい」
と、三好勢の首領格の者が、まるで脅しつけるようにしてうそぶくと言う。
守護するというより、これでは威嚇である。何度も使いを走らせ、抗議をしたが、三好の武者はそれ以上深くは答えず、抜き身をちらつかっせてせせら笑い、僧たちを寺内に追い返していた。
こうなっては、覚慶にもどうも手の打ちようもない。体に似ず根は小心ででもある。母に似て覚慶は下ぶくれのおおうような顔だちであり、どことなく品格がある。しかし、眉と眉の間が狭まっていて、やや大きめの目がたれ気味であることと、人一倍鼻が目立ち、こんな時にはさらに情けなそうな表情になった。予想をこえて事態が最悪であることを知ったのは、翌早朝、出入りの鎌倉屋という商人が駆けつけてからであった。御所で兄義輝が三好・松永勢によって殺され、弟周蒿しゅうこうまでもが鹿苑寺を出た所で斬殺されたという。
── 五月十日辰の刻(午前八時)。この日、将軍義輝の居る京都二条の館は突然の兵の乱入を受けた。義輝は失われつつある政権を取り戻そうと、諸大名などに密書を送っていた。それが三好・松永に露見した。義輝は上泉伊勢守かみいずみいせのかみからの剣術を、塚原卜伝つかはらぼくでんから一の太刀を伝授されたほどの豪の者であった。扱いにくい将軍を抹殺し、三好らは本国阿波で養育していた足利の支流義親よしちかを立てようと画策したのである。
二条やかたをびっしりと包囲した三好・松永勢と不意を喰らった将軍側には、あまりにも兵力の格差がありすぎた。侍臣侍女のほとんどが武器を取って立ち向かったが、正午近くには、そのほとんどが討ち死にを遂げていた。
義輝自らは、数十本の抜き身を床に突き立て、切れなくなるとそれを順々に取り替え奮戦したが、かがて力尽き館に火を放って自刃した ──
2023/03/23
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