~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
名を義秋 Prt-01
三好三人衆と松永久秀の勢力には格差がない。意のままにならぬ将軍義輝を暗殺して、傀儡の義親よしちかをたて、京の政権を握ろうとするところまでは協調する立場を取っていたが、もともと久秀は野望を抱く梟雄きゅうゆうであり、三人衆にとっては主家をもしのぐほどの力を持つ老獪ろうかいな久秀に、たえず警戒の目を向けていた。両者の間が目立って険悪となってくるのは、この頃からであったろうか。
大和信貴山しぎさん城を居城とする久秀は、紀伊の国の根来ねごろ衆を抱き込み、同じく紀伊の畠山高政たかまさと手を握った。中央に執着を見せる高政はこれを受けて兵を泉州方面へ繰り出し、戦雲はにわかに広がり出していた。
一方、三好は本国阿波からいよいよ手中の玉である義親を呼び寄せ、いっきに天下を握らんとした。
三好と松永の不和を耳にした覚慶は、
「よい傾向じゃ」
と、一色藤長につぶやいてみせる。
近頃では上洛を積極的に願う気持を露わに示すようになり、間隔の狭まった眉を逆立てて力みかえっていた。
無い袖のうちから見栄を張って朝廷に太刀と馬代を納めた覚慶が、正式に京都の吉田神社の神主吉田兼右かねすけの斡旋により還俗し、威厳をつけるために口ひげも生やして名も義秋と改めるのは、この年三月十七日のことであった。
細川藤孝はこのところしきりに馬を飛ばしては、まだ上洛の兆しを見せぬ織田信長を催促することで、忙しい日々を過ごしている。武田が出兵の無理を通報して来たが、織田が動くのであればさしたることでもないと、この時点まだ主従は甘く考えていた。ひたすら上杉のみを頼っていると輝虎に言いつづける義秋が、いっかな矢島から動く気配のないのを訝り、数ヵ条からなる質問状を輝虎が送りつけて来たのもこの頃であった。これに対して義秋は、日頃の援助を謝し、上杉と北条の和談について使者を送ったことと、三好・松永の不和でいずれ両者が自滅するだろうとの甘い考えを述べる。京への道が遠くなるので、まずここに滞留していると言訳のようなことを追加し、ふたたび上洛を懇請するあたりは義秋のあつかましさあろうか。
從語彙下と将軍位への足がかりとなる左馬頭さまのかみに任ぜられたのを期に、義秋は相国寺しょうこくじ万松軒まんしょうけんで父義晴の十七忌を、光源院こうげんいんで兄義輝の法要を主催した。いずれも自らが将軍の後継者であることを、これで内外とも明らかにしようとしたものであったが、久秀側の諸城を陥れた三好が、阿波の義親をいよいよ兵庫より上陸させ将軍位獲得に乗り出したことで慌てた。
義秋は輝虎に急ぎ北条と和し上洛せよと叔父の大覚寺義俊ぎしゅんによりせかせる一方、自らも北条に対し輝虎を幕府のために一時働かせるので、北条・上杉・武田の『三和さんわ』を命じる使者を送った。
御内書ごないしょは美濃・三河の諸大名にも発せられたが、尾張の織田信長と井ノ口の斎藤龍興たつおきへは藤孝自らが下向し、和議を画した。いぶとい龍興に手を焼いていた信長は、上洛の好機と喜び藤孝に出兵する日にちまでをも約束する。一方、龍興たつおきにとっては拒否すれば義秋の上洛を妨げたという汚名がつく。信長には疑心を抱くが、結局細川藤孝に誓紙を差し出す形で講和に応じて来た。
しかし、北条氏政は「三和」をするならば、まず武田信玄に命じることこそが先決であろうという、開き直った回答を送って来た。
2023/03/27
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