~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
名を義秋 Prt-03
八月二十九日夜。義秋主従は秘かに矢島の御所を立ち退いた。幸いまだ六角は自ら義秋を害する意志を持ってはいず、御所の廻りを固める兵の数はそれほどでのもなかったことが幸いした。
その夜が月も星もない暗夜であったことも、義秋らの脱出を助けている。ほとんど着のみ着のままの状態で、義秋を守護するように一色藤長、細川藤孝、とよを抱きかかえるようにして三淵藤英ら、二、三の者たちが続き、屋島の女は事が露見する恐れから捨て置いて来ていた。
一行が木浜から琵琶湖の舟に身を任せた時、やっと体中に吹き出ている汗を感じだし、湖水を渡る涼風に一息入れた。
舟は若狭に向っている。若狭の武田義統よしずみの早逝した妻は、義秋の妹であった。義秋主従は切れかかった縁でさえすがる以外に、身を置く所もなかったといえる。
若狭に行けば、越後の輝虎には近くなることにはなる。
このことが義秋には一つの慰めでもあった。
漆黒の湖水を、主従の乗せた舟はするするとすべり、義秋は遠ざかりつつある都の方に幾度となく視線を投げては、太い溜め息を何度も吐ていた。
未明には今津の浜に着き、一行は水坂みずさか峠への道をたどった。晴れた日ならば、北に三国山、南に安曇川あどがわの谷とその向うの蓬莱ほうらい 山が望まれる筈であった。が今はまだ陽の射す頃ではなく、暗い闇が頭上に広がるばかりであった。
水坂の山峡は七曲がりの谷を持ち、登るほどに道は嶮しくなり、深い原生林が鬱蒼と繁っていた。歩けなくなったとよを藤長が背に負い、義秋も慣れぬ山道の歩きに喘ぎだした。
「この峠を越えれば、まもなく若狭でございますれば、いま少しのご辛抱を願いまする」
たびたびの休息と、細川藤孝、三淵藤英などがかわるがわる言葉をかけ義秋を励ましていた。
峠をぬけた頃からは、夜もすっかり明けはしたが、今にも降り出しそうな空の色であった。それでも眼下にひろがる平野は、一行の気持をほっとしたものにさせていた。ここで細川藤孝一人がまず先行し、武田義統にこの次第を報せるべく、居城後瀬のちせの城に向った。
沛然たる大雨となってきたのは、幸運にも義秋らが村までにたどりつき一軒の大きな農家で足腰を休ませてまもなくのことだであった。領主武田義統の縁につらなる者であることを報せると、扱いは丁重をきわめ、湯漬けなどをふるまわれた。
「哀れなものじゃの」
激しい雨足をながめながら、義秋は肩を落として溜め息をついた。そのつぶやきに、とよも一色藤長、三淵藤英らも膝に湯気たつ椀をかかえて肩を落とした。雨音だけがむなしく薄汚れた部屋に響いて来る。
後瀬城は、小浜の町並みを見下ろす山腹に聳えた。二重の濠をもち、九十九折の石坂道が城館にまでつづいていた。義統はすでに矢島の御所に伺候して、刀八十振りを献上するほどの誠意を義秋に見せている男であり、一行を暖かく迎えたことはいうまでもない。五十の義統は、己が館に公方を迎えたことに目に涙さえうかべて感激し、宴を開いて一族を引き合わせた。嫡男孫八郎元明もとあきとその妻たつの方が平伏する。義秋は城の庭からのぞまれる若狭の海の閑雅さもsることながら、龍の方の﨟たけた美しさにまず目を見張った。聞けば龍の方は、幕府四職の京極家から嫁いできているという。
「さても若狭はよき処じゃ。孫八郎も京極よりこれほどまでに麗しき嫁を迎えられ、幸福のかぎりではあろう」
義秋のくいいるような視線に、龍の方は顔を朱に染めてうつむくばかりでいる。
「いやはや」
と、義秋の言葉にどう答えてよいかまごつく義統を気遣って、一色藤長がなごんだ表情で道中の困難であったことを披露した。
「されば、この義統、孫八郎ともども義秋様をいついつまでも御守護いたしまするほどに、御心安く後瀬の城におとどまり下されたく願いあげまする」
武田義統は、公方の身を預けられた光栄に飾るところのない喜びをみせて何度も平伏していた。
2023/03/30
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