~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
名を義秋 Prt-04
およそ百三十年ほども経った名門若狭武田の城は、しっとりと落着いた風格を持って居り、妹が嫁いでいた城ということもあって、義秋には郷愁のようなものを感じさせていた。
義秋は館の奥書院を居間とし、数日はとよを抱き寄せることもなく、庭や回廊から望まれる海辺の尾風景に心をなごませるようであった。
「このごろは、よく一乗院でのことを思い出しての」
とは、居間に呼んでのたわいもない話の相手をさせていた一色藤長に、ついと漏らした言葉であった。風に乗ってきれぎれに龍の方が弾くのであろう琴の音が聞こえて来る。
「よき音色じゃ」
義秋はその音に耳をかたむけ、じっと聞いているしぐさをみせた。日々この琴の音を楽しんでいるという。
奈良二月堂の水取が、若狭の水送りによって始められることは、義秋も承知するところである。若狭と奈良は、古代よりそうした古い縁によって結ばれていた。それを思うにつけ、今の惨憺たる境涯に較べればなんと一乗院での生活は穏やかなものであったろうかと、いっそすべてを放り投げ、この若狭の地でとどまることも悪くはないという気持が、義秋の胸の奥を涼めるようでもあった。
「わしには、やはり僧としての生き方の方が、似合って居るのではないかの」
この言葉に、細川藤孝が目の色を変えていた。
「これが情けない御言葉。義秋様には源氏の頭領としての血が流れて居られまする。頭領たるもの武家をたばね、この乱世を一日も早く平定させることが務めでありますれば、ここは仏に祈るよりも天下のために力を尽くすことこそが先決でございまするぞ」
「わかっておるわ。もはやわしとても還俗した身。いまさら僧に戻ろうなどとは考えても居らぬ。この地の自然にふと里心をおこしたまでじゃわ」
ややむにになって義秋が言った。
「まことにこの若狭は、そうしたおだやかな気持を誘う地でござりまするな。この藤長なども目覚めのおりなどには、ふと耳にする寺の鐘の音に、奈良や京の都でのあれこれを思い起こしたことは一度や二度ではございませぬ」
「一色殿までがそのような弱気な気持であられてどうされる。信長が破約いたさざれば、我らはすでに上洛を成し遂げていたはず。腹立たしいのは信長なれど、この先我らに力を尽くす大名は信長一人ではありませぬ」
三淵藤英の言葉に義秋も、
「まこと、信長の破約がくやまれるわ」
と、この時ばかりは残念そうに唇を歪めてつぶやき、
「して、この若狭武田はどうじゃ」
上洛に力を尽くす意志があるかどうかを探ってみたかと、三人に身を乗り出すようなしぐさで、やや声を低めて尋ねていた。
若狭は敦賀から舞鶴にかけての細長い土地に、七十九谷と呼ばれる小さな谷々をもち、土着の豪族たちはそれぞれの谷で砦を築いて割拠していた。もともとはこの若狭武田に古くより臣従する者者たちではあったが、義統の代からは小競り合いや境界争いが頻繁に起き、義統にこれを納める力がなかったことから、今では内乱直前ともいえる状態となっている。更には家老どうしがいがみ合い、義統の命令で兵を集めることは全く不可能と言えた。
加えて義秋が逗留したことが、この状態に複雑な波紋を投げ、ついには三好と気脈を通じようとする者までも出ている。
多門院たもんいん英俊えいしゅんより報せて来た若狭の実情は、細川義秋は秘かに探り当てた状況とほぼ一致し、やはりこの地も安全とは言い難かった。
「義統も孫八郎も、そういえば温厚なだけが取り得のようなとは、かねてよりこの義秋も思うてはいた」
自分のことは棚に上げ、義秋は溜め息と頓に言ってのける。
「やはり頼るべきは輝虎かの」
「信はあれど上杉はまだ動ける状態ではござりませぬ。かりに、上杉を急かせるため越後に御動座あそばされては、逆に京への道矩みちのりはいっそう遠きことになりまする」
細川藤孝の言葉に一色藤長、三淵藤英も、もっともだと顎をひいた。
細川藤孝が朝倉を頼ることを義秋に持ちかけたのは、九月二日の夜のことであった。
朝倉は古くより、江北の大名浅井氏と固い攻守同盟を結んでいた。その浅井が信長の妹を嫁に貰って同盟関係となったのは、永禄七年よりである。この時信長は浅井と代々好誼こうぎある朝倉へは信長一存で兵を出すことは絶対ないと言い切っていた。とすれば、当時犬猿の仲であった朝倉と織田は、浅井をはさんでほこを納めた状況下にあったといえる。
朝倉は越前の地に君臨する大大名である。実力から言っても、義秋の上洛を可能ならしめるに足る存在であった。若狭武田が頼りにならぬのことが分かった今、この地に留まることも安全とは言い難く、無意味な事でもあった。すでに朝倉義景にはこのことあるを細川藤孝は打診し、諒解も取り付けてあるという。
日を改め正式に朝倉への動座を伝えると、武田義統は別段驚く様子でもなく、
「お名残おしゅうはござりますれど、それでは、道中御警護なりとも我らの手で務めさせていただきまする」
已に力の無いことを格別隠そうともせず、むしろ越前入りを喜ばしいこととして言上した。
義秋ととよには輿が用意され、一色藤長らは馬上となって、後瀬の城を出たのは九月八日のことであった。来た時と同じように、形ばかりは盛大な城をあげての見送りであった。
思えば後瀬の城に留まっていたのは、十日も満たぬ短い日々であったことになる。この間、越後の景虎には再三動座について内書を発している義秋であったが、輝虎からはまだ何の連絡もなかった。
2023/03/30
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