~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
越前一乗谷 Prt-03
朝倉義景の最初の妻は、女子一人を生んで早世した。
近衛家このえけより迎えた次の妻は非常に美人であり、夜ごと義景の寵愛するところとなったが、ついに子を生まず、朝倉家存続の大前提のまえに離別せざるを得なかった。
前後して迎えたのが、小宰相こさいしょうつぼねである。一族、鞍谷刑部くらたにぎょうぶのむすめであって、ほどなく二女一男をもうけた。
長女は早世したが、侍女はのちの本願寺顕如の子教如きょうにょの妻となる運命を負っている。そして男子は阿君おきみ丸と名付けられ、義景に掌中の珠として溺愛され育てられていた。
美濃斎藤兵部の少輔しょうゆのむすめが、側室として義景の前に現れたのが、ちょうどこの頃に当たって居た。十五歳にして輝くような美貌と、男の心をとりこにする媚態とをすでにそなえていた。正妻小宰相の局が子の愛に心をうばわれているさなか、多少妻に飽きのきていた義景はたちまちこの少女に夢中となった。閨の技巧も天性のものを持っているのか、義景を有頂天にさせて飽きさせなかった。
小少将こしょうしょうと名付けられたこの女は、以後、義景の心をつかみ、夜を日に継いで小少将なくしてはいられぬほどの義景にかえてしまった。
当然朝倉の内奥は、義景の寵を競って、この正妻小宰相の局と側室小少将との間で気不味い空気となっていき、鞍谷派と斎藤派に家中も分裂してその勢力を競うろいう結果である。
細川藤孝の上洛に向けての催促に、すぐにも腰を上げようとはしない朝倉の事情が、そういったところにも隠されていた。といって、上洛を実現で出来ないなどということは、名門を誇るがゆえに口に出来ることではなかった。その期限と明確な行動策はあきらかにしないながらも、一日一日と期の熟するのを待つというのが、朝倉義景のこのところの考え方であったといえる。
義昭は気の長い方ではない。義栄の将軍位を思うにつけ、煮え切らぬ朝倉の態度に、ついには怒りを見せ出していた。それと感じた義景は、義昭の元服の祝いを、五月十七日城中で取り行うと申し出た。当日は、館の御門を厳重な警戒のもとにおき、仰々しく将軍一行を館に迎えるというとkろから行事は始まっていく。そうされれば義昭もまんざらではない。
午の刻(正午)、数千の群衆が見物する中を、馬衆・御走おはしり衆・その他百余人を従える行列で、義昭は馬上、身をそりかえして朝倉館に到着した。ものものしく警護する武将たちに、義昭は満足なる視線を向け、もはや将軍になったるかのような気分に浸って、何度となく右手で髭をしごいていた。
儀式はまず貢馬間くめのまにて三献の酒杯が義昭にささげられる。ついで庭に平伏する義景から馬が献上され、これに義昭が鷹揚に頷きをかえした。やがて義昭が立ち上がると、ゆるゆると御簾が下ろされて御目見得の儀式は一応終了する。つづいて座は主殿奥の大広間に移り、初献・二献・三献と杯が重ねられた。この時広間に入ることが出来たのは義昭、義景それに京より下向していてまだ居続けている前関白二条春良と仁木義政の四人のみであった。前関白といえど都では貧窮の生活にあった春良は、待遇のよい朝倉からはすぐには立ち去りかねていた時であり、儀式についてあれこれと指導し、いやがうえにも当日は厳かさを増したものになっていた。一献ごとに料理がかわり、太刀・鎧・馬などの品が読み上げられ、一族の景鏡によって次のままで運ばれたものを、義景が進上する。三献がすむと朝倉同名衆がつぎつぎと挨拶し、四献のときに御簾があがって能がはじまり、十献で休息となる。つづいて十一献から十七献までで宴は翌朝にまで及んでいった。
義昭が宿舎とする御所に帰ったのは翌日の巳の刻過ぎであった。
「いや、将軍とは疲れるものぞ」
一色藤長らを前にして、義昭は愚痴るように言いはするが、将軍待遇にすっかり満足しきった様がその表情にありありと現れていた。口にする疲れなどは毛ほども感じられず、言いたいことをしゃべるだけしゃべった義昭が、ふたたび疲れを口にしてとよと寝所に下がったのを潮に、一色藤長、三淵藤英は疲れでがっくりと肩を落とし、細川藤孝はひとつ大きなあくびをしてみせた。
2023/04/05
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