~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
朝倉から織田へ Prt-02
織田との交渉を一任されたような形の光秀ではあったが、この時点、義昭の心はまだそれほど織田に執着しだしたわけではない。したがって、光秀の存在自体重く見られてはいなかった。義昭にしてみれば、細川藤孝の言うようにはまだ朝倉を見限る事が出来ず、義景の腰を上げる日を心待ちに待っていた。さらには、武田・北条との和約がなった心強い上杉も、背後に居るではないかという気持である。
が、その上杉が、武田の謀略によって内部で叛乱騒ぎを引き起こしていた。本庄繁長ほんじょうしげながが越後本庄城で反旗を翻し、これによって、にわかに越中方面の戦雲が慌しいものに変わったいた。義昭の気持とは裏腹に、輝虎は本国を一歩も離れることなど思いもよらない状況となっていたのである。
光秀の働きにより、織田との交渉が急速に具体性をおびて来たことによって、藤孝らはにわかに色めきたっていた。朝倉には目立たぬように、まず和田惟政が織田に接近し、つづいて細川藤孝自ら詰めを急ぐかのように光秀を介して信長に面談に及んでいた。
日々、信長の名が高くなる中で、義昭一人が壊れた人形にまだ未練を残すかのように、朝倉の名をつぶやく。
しかし、すでにこの頃には義昭が織田側に座を移すのではないかという風聞が広まっていた。義景としてもこのことは充分承知するものであろうとして、義昭はわざわざ能の席に義景を召し寄せた。
「噂は噂として、余は朝倉を頼みに思うておる」
動座という言葉をあえて口には出さずに義昭は、上洛の件を再度義景に切り出して見た。
が、当の義景はそんな上瀬に怒っているようでもなく、かといって、上洛の兵をすぐに起こすようでもなかった。青白い顔を義昭に向け、ただ朝倉に公方が身を預けてくれる喜びだけを告げ、義昭に大きな溜め息をつかせていた。
その義景がにわかに倒れ伏したのは、それから四日後の、嫡子阿君丸に急逝からでる。
義景の内奥が複雑を極め、毒薬が城内に持ち込まれたなどという囁きも以前から何度となくあった。阿君丸急死の因がしつように詮索され、侍女一人がこれによって刑を受けるという陰惨な結果を迎えていた。このことがあって義景は、一時廃人のようになり、げっそりと窶れて寝込んでしまった。ようやく立ち直りはしたものの、それからの義景は小少将の体に以前にもまして溺れ切るようになってしまった。
「もはや義景は、あてには出来ぬ」
腑抜けのようになって、小少将の体を求めるだけという義景に、ついに義昭も朝倉に見切りをつけざるを得なかった。
信長が、義昭が美濃に移ればしぐにでも上洛を実行する気持のあることを、光秀から和田惟政らを通じて正式に確約して来たことに依って、義昭の身辺はさらに慌しさを加えてきた。細川藤孝は岐阜の信長のもとに滞在し続ける光秀と連絡をとり合い、その準備に忙殺された。
六月二十日には義昭の名において、紀伊国粉河寺こかわでらに入洛通知を発し、畠山高政とともに今後も忠勤に励むようにと言い、自分の名とともに一色藤長の書状も添えて送った。
が、やっかいなのは朝倉家中であった。将来、朝倉を義昭や信長が敵とするかも知れぬという不安を抱いている。細川藤孝は姿を見せぬ義景はさておき、鞍谷・斎藤ら朝倉を代表する家老たちと何度も交渉し、これらの慰撫に努めた。病中の義景は当初ただおろおろと取り乱すのみであったが、離れゆく義昭を引き留める力のないことだけはついに悟りきったのか、やがて義昭動座を了承した。
七月十二日付けで、義昭は輝虎に対して上洛の見込みがたたtので、近日美濃岐阜の地に動座する。義景もこれには悪い感情を持ってはいないなどと人の気持ちを勝手に決めつける文を書き送っていた。義昭の心は早くも岐阜に飛んでいたと言える。
2023/04/06
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