~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
上 洛 Prt-01
信長の上洛策戦は周到である。すでに家康、長政とは同盟関係にあった。さらには武田とは信玄の子 勝頼 かつより に養女を嫁がせ、その後も嫡男信忠に妻に信玄の娘を迎える約束まで取り付けている。そしてついに、義昭という駒が手に入った今、信長は上杉に書を送ることも忘れていなかった。義昭を戴く以上、上杉がこの上洛を阻止することはまず考えられない。しかし、最強を誇る上杉軍団は不気味であった。了解を取り付けておくことに越したことはないと信長は考えていた。こういった万全の手を打った後に、信長は義昭という大義名分をふりかざして、上洛の兵を起こそうとしたのである。
「公方様」入洛に供奉せよとの信長の使者が、近隣諸国に発せられた。
そうしておいて信長は、近江佐和山に妹婿である浅井長政と最終的な打合せをする一方、ここから行く手に位置する近江観音侍城の六角承禎の出方を探ろうとした。
佐和山城は長政配下の城である。このとき信長はわずかの手勢だけでこの城に出向いていた。これを千載一遇の好機として、この際、信長を殺してしまおうと長政にしつっこく迫ったのは、重臣遠藤喜右衛門であったという。遠藤は、今やらねば、逆に当家はいつか信長のために苦汁を飲む時が来る、とまで食い下がったが、ついに長政の首を縦に振らせることは出来なかった。のちのち姉川の戦いで、この喜右衛門が単身死に瀕した僚友の首を掻き切って掲げ、まんまと織田兵になりすまして信長本陣に近づき、信長眼前で見破られて壮烈な討ち死にをしたことが「浅井三代記」に買い残されてる。
ともあれ信長は、己の知らない所で一命を拾っていたことになる。
この佐和山で信長は、再度六角に使者を送り、上洛協力を要請した。ともに三好討伐に加われというものであった。むろん信長とて六角が三好三人衆と通じているのを知らぬわけではない。拒否するであろうことを承知の嫌がらせである。六角承禎は一度は義昭を己が手中にし、自身が上洛を果そうとしたほどの男であった。ましてや名門を誇り、信長を成り上がり者とさげすんでいた。観音寺城中に三人衆の三好 勝頼 ながゆき 、岩成 友通 ともみち を迎えて承禎は、信長上洛阻止をきっぱりと宣言し、信長の使者を追い返す挙に出た。
が、早くも三好 義継 よしつぐ 、松永久秀、 久通 ひさみち 父子が信長側に内通し、反信長体制で一度はかたまった三好側の結束は内部から崩れ出していた。
九月七日、信長はついに大軍を率いて岐阜を出発。
長政・家康の軍勢を加えた六万余という大軍団であった。朝倉が出兵要請に応ぜずとも、義昭を戴く信長のもとにはこれだけの兵が結集したわけであり信長は戦う前から六角を飲む勢いを示していた。十日、近江高宮に着陣。十一日には 愛智川 えちがわ を越え、 箕作 みつくり 城ほか六角の支城十あまりをまたたくうちに陥落させて、十三日には本拠観音寺城に怒涛の如く迫っていた。
驚いたのは承禎である。まさかこれほどあっけなく支城が攻めぬかれるとは、思ってもいなかった。三好勢の援軍もまだ到着せぬうちに、気がつけば居城の眼下は敵の兵で群れていた。その織田勢の数の多さに承禎父子はただ呆れ、一戦も及ばぬうちに一族こぞって伊賀方面に脱出した。これによって、ほぼ近江一国を平定できた信長は、義昭を 桑実 くわのみ 寺で迎えたのが九月二十二日。さらにそこから琵琶湖を船で渡って、三井寺光浄院に着陣。その間、藤孝、光秀をして山科から京に軍を進めさせた。このすばやい織田側の進撃に、三好側は驚き慌て、なすすべもなく京から摂津に逃走し、義栄は本国阿波にまで逃げ帰った。
一旦は、戦乱の巷となる事を予想し、上や下への大混乱に陥っていた都の民や公家たちであったが、義昭を奉じて無血上洛で都に乗り込んで来た織田軍が、乱暴狼藉には斬罪をもってするという厳しい規律を持つももとわかり、やっと不安の胸をなでおろして、その後は恐れと好奇の混ざった眼差しでこの軍団を眺めていた。
清水寺の一室で慌ただしい行軍の後に落着いた義昭は、その夜、あらためて一色藤長から祝辞を受けた。
こうもあっけなく上洛を果せるとは思ってもみなかった義昭であっただけに、喜びに浸り切り笑顔がたえない。信長を父とも思えとまでに一色藤長に言い、何度も信長を褒めそやした後、
「このうえは一日も早く三好が首をあげ、兄義輝や弟に無念をはらすまでじゃ」
と、疲れた表情も見せず、高ぶった声をあげつづけ、
「見るがよいぞ藤長! 我が足利幕府の地を」
と、戸障子も開けさせた。
眼下には、夜の都が寂漠と広がっていた。
2023/04/07
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