~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
上 洛 Prt-03
足利幕府再興を実現させた功労者は、なんといっても信長である。輝虎、輝虎とあれほど上杉を頼みにしていた義昭の口から近頃その名さえも洩れることがなく、信長一辺倒となりきっていて、上杉輝虎の存在さえ忘れ去ったかのようになっていた。この信長を将軍としての義昭は、まずおおいに報いようとした。十月十三日、義昭は自邸に信長を招いて饗応し、ともに能を観覧した。のち席を改めての対面で、信長を報いるにその希望を問うた。
「遠慮いたすな。なんなりと申してみるがよいぞ」
無言のままでいる信長に、義昭はかさねて問いかけた。
が、信長はやはり無言で、今度は平伏して見せただけであった。その態度を義昭は恐懼きょうくの姿勢ととり、髭をひとひねりして満足の瞳を信長の背にあてていた。
与えると言っても、今の義昭が意のままになるものと言えば、美辞麗句を書き並べた書状意外に、何も無いことぐらいは誰でもわかりきっていた。それを大仰な態度でおくめんもなく問いつづける義昭に、信長としてもうんざりした顔を見せるわけにもいかず、平伏という形を取って顔を伏せただけでった。が、義昭にはそれが信長の謙譲のあらわれであると見てとれた。
「どうじゃな、余は先般朝倉義景を管領代に任じたが、そなたにはそれにも勝るものとして管領に任じるつもりでいるが」
管領とは、足利幕府の臣下としては最高の職である。
雀躍じゃくやくとして喜ぶかと思った信長から、即座の返答が返って来た。動転したのは逆に義昭の方である。
「仰せはありがたけれど、ご辞退したしまする」
にべもない拒絶あった。
「いや、無欲じゃ」
その夜、義昭は一色藤長を前にして、信長のほめたたえた。しかし、己を将軍職につけた信長には、なんとか報いる姿勢を示さねば、天下を納める者としての度量が疑われると義昭は考える。第一、己が将軍となってはじめて与える恩賞であり、それを頭から拒否されれば立つ瀬もなかった。
とりあえず、由緒ある清和源氏の足利の桐と二引両にひきりょうの紋章を授けることとし、自筆で書いた感状を細川藤孝、和田惟政の添状をつけて、藤孝に持たせるとともに、再度、菅僚職を受けるようにと説得させた。が、信長の態度は変わらない。こうなれば、なぜ受けぬという気味の悪さとともに、義昭のにも意地が出た。何としても信長の顔に満足の表情を浮かばせて見せねばとばかりに、ふたたび細川藤孝を使者に立てた。そして今度は、副将軍の地位を授けるとまでに言わしめた。よも副将軍を断わるとまでは使者に立った藤孝でさえも思っても見なかったが、結果はあっさりと拒絶を受けていまっていた。
「ご使者、大儀でござったが、この信長、副将軍の儀もご辞退させていただくほかはない」
これまでにない厳しい表情で細川藤孝を睨み据え、取り付くしまもない信長であった。
どうしても信長に位を受けさせよとは、義昭の厳命である。ここで引き下がっては使者としての役目も果せずと、藤孝はなおも食い下がろうと膝をすすめたが、
「細川殿!」
やや、苛立った信長の甲高い声が、藤孝の顔面に飛び、威圧する信長の声がつづいていた。
「それほどまでに恩賞をと申されるならば、あるにはある」
「はっ」
「堺・大津・草津、ここにわしが代官を置く。このこと将軍家にご承認あられたい」
言った信長の頬が、やっとこの時ニヤリとゆるみ、
「それだけじゃ」
と、あとはそっけなく会見を打ち切った。これではまるで、与える方が命令されたよいなものであった。
何となく肩すかしをくらわせられたようであったが、のちのち、信長のこの要求は実利を狙った将軍義昭から引き出せる最大のものであったと、細川藤孝は気付くことになる。なぜなら、信長は軍事・経済上の要地を堂々と将軍の名において支配し得ることとなり、さらに一層の力を持ち得たからである。しかし、そのことをまだ義昭は理解し得ない。
「代官設置の認可など、何ほどの恩賞にもなるまいに」
義昭は首をひねりながらも、ともかく信長の一つの要求に答えられたという一種の安堵感だけは抱けたのであろう。
「それにしても、無欲よのう」
二十六日には佐久間、明智、木下など五千を京に残して、はやばやと岐阜に引き上げる予定の信長に、そういった感想を一色藤長なぢに洩らしていた。
そんな義昭に輝虎も愛想がつきたのか、その後はオパッタリと連絡もなく、上杉との関係はますます疎遠なものとなっていった。
2023/04/08
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