~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
と よ Prt-02
光秀の奮戦はすさまじかった。鉄砲勢を多く率いていたことも幸いした。一斉射撃の明智の猛攻に、にわか集めの三好側は、包囲したまではよかったが、寺内へ突入することが出来ない。そうこうするうちに、勝竜寺城から細川藤孝が。さらに和田惟政、池田勝政ら京郊外に滞陣していた諸将が三好の背後から攻めかかった。総大将の薬師寺九朗坐衛門が流れ玉に当たり討ち死にしたこともあって、三好側はあっけなく潰走した。寺の包囲も潮を引くようになり、叛乱軍は七条を武田方面へひたすら逃走したという。
この変報を耳にした信長は、ただちに岐阜を飛び出していた。ふつうなら岐阜から京へは三日を要する。信長は二日間でこの道を駆け抜けた。岐阜方面に降り出した雪は、翌、翌々日とこの地方に降り続き、道中は大雪のためにただでさえ通行困難になっていた。大軍噫は先駆けする信長よりはるかに遅れ、寒さと疲労で息も絶え絶えとなって京に到着したのは、信長に一日遅れた十一日のことであった。京はふたたび織田軍勢で満ちた。
この事変で信長が素早い動きを見せつけたことには、理由がある。信長は三好の残党狩りを命じる一方、和泉堺に使者を送っていた。堺はこれまでどの権力者も、その財力に対して遠慮を見せて来た。信長はこれを機に矜恃きょうじんの高い堺衆の鼻柱をへし折ろうと考えていた。
三好長逸、岩波友通を裏で援助していたことを厳しく責め立て、二万貫の銭を詫び料として支払えと言い、さもなくば堺全土を焼き払うぞと脅しつけた。信長は二条室町むろまちに大々的な将軍御所の造営を考えていた。二万貫の銭はそのために必要なものといえ、力の誇示と費用捻出をねらった信長の一石二鳥の抜け目なさであったと言える。
義昭将軍を飾り立て、その名において己の力を天下に轟かすことが急務であった。三好ごときに攻め寄せられる本圀寺では心もとなく、己が擁立した将軍の御所として、世間の耳目を驚かしめるほどの規模をもつものを早急に造らねばならぬと、信長は考えていた。
一方、御所造営の話といい、三好を一瞬のうちに追い払ってくれたことといい、義昭にとってみれば信長はいまや守護神とでもいった存在に見えた。
「信長は当代稀に見る律儀な武渉よ」
「これほどまでに余を気遣ってくれる忠義に厚い男は、天下に信長をおいてはいない」
などと、義昭は明けても暮れても近頃では信長であった。ひところ上杉輝虎に非常な執着を見せていた義昭のこの変わりように、一色藤長はやや鼻白んだ感じを抱いた。三淵藤英などは、信長の名を聞くと露骨に反感を見せ出していた。
「信長、信長と言うが、それほどまでに信用してよい男のものかどうか」
とり澄ました顔に酷薄さが滲み出ているとは、三淵藤英の信長評である。
一色藤長たち側近のそんな気持とはかかわりなく、義昭は舞い上がっていた。己が本圀寺を一歩も逃げ出さなかったことも、将軍としての自信を強めていた。七日には豊後の大友宗麟に毛利との講和をすすめ、十三日には毛利と大友で阿波の三好の本拠に攻め寄せるようにと、勝手な命令を下していた。
が、この手紙の内容が信長を怒らせることとなる。上洛以来、義昭の出す内書は、すべて信長の検閲を受け、信長の添状があってはじめて効力を有するものと決められていた。それを無視しようとしたことと、文中、義昭自身が三好を退治したように書き、信長の存在などまったく消滅していたことが信長を怒らせる原因ともなっていた。
対外的にかってな動きを見せた義昭に対して信長ははじめて牙をむき出して来た。
「将軍といえど、この信長がいればこその将軍じゃ」
細川藤孝を呼びつけ、激しい語気で怒りつけた。その怒りは「殿中の掟」という形で具体化を見せる。一応、義昭自身が定めたという形式にはなっていたが、いわば幕府内部に対する信長の掟であった。藤孝、光秀に対して信長は、この掟を御所で守らしめるようきつく命じた。
2023/04/09
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