~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
と よ Prt-04
侍女から上﨟として遇されることになったこの女の名をさこの方という。当然、とよはみくれた。宥める役は、やはり一色藤長であった。
「将軍ともなれば、上﨟じょうろうの一人や二人は形式上持たねばならぬこともござる」
「ほかならぬ信長よりの献上でみあれば、御所様もむげに退ける訳にはまいらぬものと心得まするが」
まどと、一色藤正は頬をふくらませ、柳眉を逆立てるとよに因果を含ませようとした。が、日増しにとよの悋気は強まるばかりとなった。無理もない。義昭はその夜以来まったくとよには見向きもせず、さこの方ばかりにうつつをぬかす毎日となっていた。新御所造営に際して、御所内は今後の移転で誰も彼も忙殺されている。とよ一人をかまってやる者がいなかったことも原因した。
「もはや殿はこのとよがお嫌いになったのじゃ」
そう言っては仕える者たちにあたりちらし、甲高い声でわめいては泣き叫ぶ。こうなればもう病的といっていい。そのたびに藤長が駆けつけ、くどくどと繰り言をいうとよの相手をしてなだめた。とよの悋気の激しさにもあきれるが、たまには抱いてやればいいもをと、一色藤長は義昭の身勝手さをうらめしく思ったりもする。
そのとよがふとした風邪をこじらせて寝ついたのは、いつになく寒気が厳しい夜からであった。翌朝は御所中が雪で覆われるかと思えるほどに、一面白い色にかわっていた。初春とはいえ京はまだまだ底冷えがした。
単なる風邪とは医者の見立てではあったが、熱は下がらなかった。悋気になやませられなくなったことにほっとする藤長であったが、やはり気にはなる。なにしろ和田館より苦労を共にして来たという思いがあった。
「容態はどうじゃ」
義昭もやはり気にはしていると見え、一色藤長に尋ねたりもするが、自身が見舞うことはなかった。さこの方のことで多少うしろめたく思っているからだろうかと藤長は推測したりもするが、姿を見せてやり一言ぐらい声をかけてやりさえすればとも思った。
雑用にとり紛れ、三日ほど御所を留守にしていた一色藤正が病床を見舞った時、あまりのとよの変貌に慄然とした。豊かすぎるほどあった肉置ししおきが消え、目ばかりが目立っていた。
それはそれで妖しい美しさであり、熱のためにうるみをおびた瞳はかえって妖艶さを増していると見られなくもない。その瞳がすがりつくよいに藤長をみつめ、かすかな声で藤長の名を呼んだ。何事かと一色藤長はよく聞こえるように、とよのま近くまで膝をすすめ、身を乗り出すようにしてか細い声を聞き取ろうとした。むっと蒸せるほどに女の甘い体臭が臭って来た。藤長を驚かせたのは、やにわに衣の端を夜具の中から細くなった二の腕を差し出して掴まれただけでなく、同時にとよの口から出た言葉であった。
「抱いてくだされ」
一色藤長を狂ったような瞳でみつめ、唇はそう言っていた。
驚き慌てて藤長はやみくもに首を横に振り、身を下がらせようとした。
が、とよの手は病人とは思えぬくらいにしっかりと藤長の袴の裾を掴んで離さなかった。
「めっそうもござらぬ」
一色藤長はやっと喉から声を振り絞るようにして言い、とよの狂態を宥めるべく、わざとゆっくりとした口調で語りかけた。
「つまらぬことを考えられるな、おん身は病じゃ。早うよくなることだけを考えられよ。一日も早い回復を御所様も願っておられる」
どうにかその手をもぎ取るように衣から離させ、夜具の中へ戻そうとする。が、逆にとよは藤長の手を己が乳房にまで導いた。
とよが死んだのは、その日の夜である。
「かわいそうなことをしたものじゃ」
とは、一度死に顔を見に来た義昭の言葉であったが、別にそれほど気にやむでもなく、あいかわらずさこの方に溺れ込む毎日であった。
あの時、どのようにしてとよのもとから逃れだしたのか、一色藤長には記憶がなかった。それほどにまでして体のうずきを訴えたとよに不憫という気もわくが、女体の業の深さにも空恐ろしさを覚えた。
しかし、それとは別に、一瞬ではあったが藤長の鼻孔に満ちたとよの甘い体臭が、なぜかなつかしくいつまでも藤長を忘れさせなかった。
2023/04/12
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