~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
さ こ の 方 Prt-02
室町御所に移り、義昭はより将軍職というものを自覚してきていた。日を重ねるにつれ、その感じは増大する。
信長が京より居なくなったことで、大きな枷がとれたように感じるとともに、それは天下人としての自信に繋がっていった。
将軍職の政策であった輝虎と武田の和約や、加賀の一向一揆と朝倉の和約を本願寺顕如に命じたのは、広く天下を納めてゆこうとする義昭の将軍家としての活動の第一歩であった。
相手の実情をもかえりみず、一方的に矢継早に諸国に御内書を送りつづける義昭。その活動を軽々しいと見、後継人としての信長がこれを知れば必ず面白く思わぬはずはなかろうと、細川藤孝は懸念けねんを持った。
が、義昭はそんな藤孝に激怒した。
「余は信長の傀儡ではない」
義昭の言葉は、三淵藤英などにとっては大いに満足すべきものであり、
「さよう、義弟藤孝の考えは杞憂と申すもの。今こそ一刻も早く足利将軍の依命いめい
藤英などの意見に勢いづき、さらに義昭の活動は活発化していった。宿敵三好を討てと、毛利などにも内書を送り付け、諸国諸大名に対して、御所に伺候せよとも命じていた。
そんな御所の空気を岐阜に帰っていた信長は、光秀の定期報告によって耳にすると、唇を一瞬「へ」の字にゆがませた。しかし、不思議とそれ以上に険しい表情にもならず。
「帰って光秀によく申せ。藤孝とよく気脈を通じ、将軍家がさらなる愚かな行動に走らぬようすることが肝要じゃとな」
平伏する光秀の使者に、役目をねぎらう余裕ある言葉さえ与えていた。
東北方面をほとんど徳川家康に任せたような形で、信長は中央を制することにいま全力を集中している。
義昭という駒を擁しての上洛を果し、信長にはこれからが天下統一に向けての基礎造りを始めねばならぬ重要な時に当たっていた。義昭の勝手な動きは面白くはないが、武力を持たぬ義昭に何ほどのことが出来よう。現実にこの信長が居なければ、将軍職につくことさえ出来なかったわけである。そう考える信長は、この時点、将軍となった義昭を多少甘く見ていたのかも知れない。光秀と藤孝に釘をさしておくことぐらいで、とりあえず事足りると思ったのだろう。それよりも、信長には南伊勢平定を果すことが、急務となっていた。そのきっかけは、幸運にも向うからやって来た。
南伊勢は、名門北畠氏の勢力圏である。その中の一族木造具政こづくりともまさは宗家に背き、つい先ごろ信長側に属していた。怒った北畠は後先あとさきも考えずに具政を攻めた。充分な準備を整え、具政救援に信長が兵をくり出したのは、八月のことであった。一志阿坂あざか城をおとし、またたくうちに北畠具教とものりの居城、大河内おおこうち城を包囲し、兵糧攻めにかけた。坂内さかうち川の上流に位置し、大河内城は堅固な城と言われて来た。しかい、旭日の勢いに乗る織田軍勢の前に、攻防五十日でさすがに音を上げ具教は和を求めた。
茶筅ちゃせん具房ともふさの養子とするならば許そう」
信長の講和の条件であり、信長の次子茶円丸を北畠の跡目に据えるならば兵を退くというものであった。
この時城内は飢餓状態にあり、城主具教、その子具房とて水のような粥をすする毎日であった。海からの救援も九鬼水軍により遮断されている。しかし、剛腹な具教は当初その講和の条件を聞くと激怒した。
「それでは名門北畠の血を汚すこととなるのではないか」
が、茶筅丸が十二才の子供であることが知れると、
「そのようなワッパなれば、のちのちどうとでも出来ようわ」
と、ついに腹をくくって城を開けたという。しかし、のち、茶筅丸は長じて信雄のぶかつとなり、具教。具房父子のもくろみも逆に我が身を滅ぼす結果となるのは数年後のことであった。
2023/04/13
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