~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
そで はん Prt-01
永禄十三年は、この後四月二十三日に義昭の申請によって「元亀げんき」と改められる。信長の考えていた「天正」という年号をとらず、信長が京を留守にたわずかな隙を狙って、即座に朝廷に働きかけた義昭の裏技うらわざの結果であった。
が、この年の正月二十三日という日ほど、将軍義昭にとっては屈辱的な日もまたとはなかった
不和となった信長から、明智光秀と朝山ちょうざん日乗にちじょうを通じて和解の条件として五ヵ条からの誓約書が突き付けられて来たのである。
先ず第一の条件に、義昭の内書に信長の添状をつけねばならぬとし、これは上洛時より信長が要求していたものを、今一度徹底させる信長の強い意志の表われであった。
二ヵ条目はこれまでの義昭の出した下知をすべて破棄せよといい、第四条にいたっては義昭の意見のあるなしにかかわらず、信長が天下の政務を委任されたものであるかぎり、信長の思う通りに処分を実行する。第五条においては義昭自らはもっぱら御所内においてせいぜい将軍職に勤めるべきだとし、義昭にとって目が吊り上がるほどに厳しい内容に満ちていた。
この条書は朝山日乗上人と明智光秀に宛てた形式となってはいたが、信長がすでに朱印を押し、義昭に証印を押させることによって正式なものにしようとしていた。
日蓮宗の朝山日乗はもともと修法をもって皇居に出入りし、帝の得ている怪僧である。信長には上洛して来た頃より近付き、内裏だいり造営の奉行を勤めたほか、枢機にもあずかるようになり、光秀と共に京の政治に深くかかわるよにさえもなっている。
その日乗も、光秀と共に信長からの状書を前にして、唸るよりほかはなかった。
「きっと、将軍家に黒印ぼくいんを押さしめよ」
とは、岐阜に帰った信長が二人に課さしめた任務であった。が、内容が内容である。一読すれば、義昭が怒りだすことぐらいは手に取るようにわかっていた。
「難役でござるわのう」
日乗は太い腕を組んで、もう先程から何度も同じ言葉を光秀を前にして吐いている。
「ま、やるしかござるまい。冷たいようでござるが、拙僧のみまするに、将軍家はそれほどの器量人とは思えませぬな。つまるところ、遅かれ早かれ信長公に引導を渡されるのではござるまいかの」
やがて日乗は突き放したような言い方で、ひとつ己の膝を叩いて御所に向うべく光秀をうながせた。
しかし、朝廷と信長の橋渡し役としての日乗ほど、光秀の立場は単純ではなかった。もともと将軍直参となって義昭に信長を斡旋したのが、他ならぬ光秀である。その己が逆にいま義昭に引導を渡すかのような役割を信長から与えられようとは思ってもみぬことであり、どうしても後めいた気持になる。が、ここで信長の命令を拒否すれば、己の将来を失うことぐらいは容易に察しがついていた。形式上信長と義昭の両方に仕える身であるが、日々信長寄りの立場に傾くようになっている自分を自覚し、義昭にすまないという負い目を感じる。義昭を完全に見限ったわけではなかったが、天下を伺う信長にさらなる魅力と畏怖を感じ、その中で己の未来を育むことが、いまの光秀には大いなる生き甲斐にもつながっていた。このことは立場は大きく細川藤孝にとっても言え、その藤孝にも近ごろの義昭は白い目を向けるようになっているとも聞く。藤孝からの助力を考えぬでもなかったが、それでは義昭に対しての彼の立場はさらに悪化するであるとあきらめざるを得なかった。
「将軍家と信長公の怒りを比べてみれば、おん身も拙僧もこれはなさしくなんと義昭公が怒られようとも、この難役を果さねばならぬところでござろうかの」
光秀の心の中を見透みすかすような日乗の言葉に、光秀もやっとふんぎりをつけたかのように、条書を納めた桐箱を手にして立ち上がっていた。
2023/04/15
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