~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
そで はん Prt-03
その日から御所は重苦しい空気に包まれていった。
条書を前にして、一色藤長と三淵藤英は溜め息をつき、義昭は一言も口をきかず人を遠ざけて塞ぎ込んだ。勝竜寺城の細川藤孝に藤長は一応相談をもちかけたが、思っていた以上に藤孝の見解は厳しいものをもっていた。
義昭に判を押させる以外に手の打ちようがなく、この時点で信長に逆らえば、幕府は滅ぶと断言した。さらには、藤長に全将軍義輝公の二の舞とならぬようにと忠告し、義昭公には慎重な行動を取られることを奏上せよと言って来た。信長に気を良く持たぬ三淵藤英にしても、押印を拒否しつづければ、次に信長がどんな手段に出て来るか知れたものではないという不安を抱いた。しかし、藤英は一色藤長の肩をポンと叩いて次の瞬間ニヤリとしして見せた。
「のう藤長殿。わが義弟ながら細川藤孝の言葉、噛みしめるものがござったわ」
首をかしげる藤長に、
「ほれ、藤孝はこの時点と言うてござる。この時点じゃ。何も信長の武力がいつまでも続くと決まったわけではなし、一時の辛抱ということもござろう。ここじゃ将軍家に曲げて袖印を押していただき、時を待つが賢明かも知れませぬぞ」
「天下布武などと信長は豪語いたしてはおりまするが、武田・朝倉・毛利、さらには上杉がござりまするぞ上様」
二人がそろって義昭に奏上するや、うなるだけの義昭の面上に徐々に明るさが戻って来た。
「そうじゃ、輝虎じゃ」
やっと義昭も愁眉を開いた。
「強豪上杉が動けば、信長も三好のように京から逃げ出すことではござりましょう」
三淵藤英が力づけるように言い、後を受けて藤長が、
「一時だけをご辛抱下さりませ。一時を」
屈辱の袖印であったが、やっと義昭が黒印を押したのは、その月二十三日のことであった。
義昭の政治活動をまったく押さえ込んだと思った信長が、いよいよ天下の強豪にその牙をむきはじめたのもこの頃である。まず、朝倉義景に義昭の命令で、朝廷と幕府のことについて相談するため急ぎ上洛せよとの招集状を発した。むろん、信長の影がはっきり見え過ぎるほどのこんな招集状に、義景が応じる訳もなく、黙殺した。
「ふん」
と、信長は無視されたことに怒りだすわけではなく、鼻で笑った。これで、立派に将軍命令を蹴った朝倉に、討伐の口実が出来たことにはなったのである。
「増長し、鼻柱の高くなった信長めも、朝倉相手では歯が立つまい」
義昭は義昭で、自らは信長の旗頭となっているが、陰では朝倉を応援する。
この頃にはもう袖判¥を押した苦衷も薄らぎ、二月二日には参内して宴にも侍し、屈託のない笑い声も響かせていた。
高田信玄が駿河で料所の献上を申し出る覚書を、一色藤長宛てに送って来たことも義昭を力づけていた。藤長にも翌年より五千疋送るといい、かわりに信玄の子勝頼に官と一字の名乗りを懇請して来た。
「信玄と言う男、輝虎との敵ではあるが、不実でもないわ」
信長との関係がこじれている時期だけに、信玄のこの申し出は、将軍の権威をあらためて認識させたといえ、義昭らを大いに勇気づける作用をもたらせていた。
図に乗った義昭は、一色藤長の旧領美作久世保の地の復活を、毛利に命じたりもし、いったんは信長の弾圧に打ち沈んだ気を再び燃え上らせていた。
憎しみの余り、信長からの献上であるさこの方を一時は正常に抱こうとしなかったが、この頃ではそうでもなく、夜ごと裸身を撫でまわし寵愛するようにもなっていた。
しかし、されるがままのさこの方に飽きたらず、侍女にも手をつけはじめ、女ならばと信長にも新たな女を送りつけたために、一対の局・小少将・大蔵卿の局。春日の局・三位の局・小宰相の局といった側室たちをつぎつぎと持つにいたる。
外に手を出すことを封じられた義昭の有り余った精力が、ひたすら女体に向って吐き出されたこの一年が、不服ながらも信長の枷の中で精神的にも肉体的にも、義昭の一番安定した時を見せていたのかも知れない。
2023/04/16
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