~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
朝 倉 攻 め Prt-01
信長が大軍と共に家康を伴ったうえで上洛して来たのは、二月三十日である。途中、近江常楽寺じょうらくじで相撲大会を開くなど、悠々とした道中であった。義昭を完全に押さえ込んだということが、無意識にも彼を余裕ある者にし、京ではいつもの本圀寺に泊まらず、光秀の邸に泊まって袖判を押させた光秀の労をねぎらっていた。
「ようやった」
とは、織田家重臣たちの前で、光秀を晴れがましくも持ち上げた信長の言葉であった。
その後、内裏造営の工事現場を見て回り、のち、義昭に上洛を報告した。
「ご尊顔を拝し、恐悦至極にござりまする」
信長は切り出しから慇懃な態度をとっていた。
「そこもとにも」
と、義昭も笑顔を絶やすことなく応じていおる。
この二人の会話は、終始袖判の件などなかったかのように穏やかな雰囲気のままに進行した。
こうして三月から四月にかけての在京中の信長は、公卿たちの機嫌を取ったり、義昭と能を見たり、遠路伴って来た家康を接待したりで、だらだらとした日を送っていた。
この間、三好義継、松永久秀がそろって信長を見舞ったが、信長の機嫌のいいのは変わらず、三好・松永を歓待して京に留めた。
が、義昭にしてみれば、二人は宿敵にも等しい存在である。この時だけ義昭は、露骨にムッとした表情をあらわし、信長の催した宴をも蹴っていた。
しの信長が、突如、軍事行動を起こしたのが、四月の末であった。松永久秀にも同行を命じ、光秀の軍と、己と家康の率いて来た三万の軍勢で根雪ねゆきが解け始めた近江路を北進した。
出兵の口実は、幕命に背いた若狭の武藤むとう上野こうずけを討つというものであった。
近江坂本から若狭に至るまでに、土地土地の諸豪族がしの麾下に馳せ参じて来るのを信長は鷹揚に受け入れて進軍した。この土地にも、もう雪はほとんど無い。大軍は早春の若狭路を楽しむかのような、のろのろとした足取りでさえあった。が、一転して軍勢がその牙を転じ、急進しだしたのは、佐柿さがきに陣し、武藤を降した時からであった。信長は敦賀路の雪の消え去るのを待っていたのである。目指すは越前鎌倉であり、大軍は関峠から敦賀に怒涛の如く攻め入っていた。
織田の軍事行動に当初から不審を抱き、かなヶ崎・天筒山てづつやまの両城に三千ばかりの兵を入れてはいた朝倉であったが、まさか、武藤を討ったその足で攻め寄せて来るとは万に一つも予想はしていまかった。織田には朝倉の同盟国浅井との間に約束事がある。浅井の了解なしに、織田は朝倉に兵を向けないというものであり、浅井から織田勢に関する連絡がない以上、大事はないとタカをくくっていた。十倍する敵に天筒山城がまず落ち、翌二十六日には金ヶ崎城が重囲にさらされた。朝倉景恒は必死に防戦に努めたが、ついに同日夜、城を捨てて府中に退却。
両城のあっけない陥落で、一乗谷では慌てて義景自らが軍勢を率いて出馬するが、何を思ったか義景は途中から軍を返し、本拠一乗谷に戻ってしまった。
緒戦の大勝利に意気あがった信長は、こうなれば一気に木ノ目峠の嶮を越え、一乗谷にまで攻め込む気持を持った。
が、ここで江北の浅井が、残党を集めた六角と呼応して、兵を挙げたとの注進に接した。
虚言きょげんである」
当初、信長はその報を否定した。敵を動揺させるためによく使われる手であり、朝倉の姑息こそくな謀略であると、決めつけていた。妹お市の婿である浅井長政は律義者であり、夫婦仲も睦まじく、義兄である自分に背く具体的な理由などないというのが、信長の浅井に対する先入観であった。事実、このとき長政は決断に苦しんでいた。あれほどの固い誓約を無視した義兄信長には怒りはあるが、敵対する意志は未だなかった。しかいs、父に久政や重臣たちの中には、もともと信長嫌いな者が多く、信長に不信感を根強く持ち続けていた。
「やはり信長、信ずるに足りず」
朝倉を間にはさんだ盟約違反が、これらの者たちを勢いづけ、
「朝倉と織田との絆を較ぶれば、織田など問題にならぬわ。さらに、内密なれどわれらには義昭公からの御内書が下されておる。信長を討つは将軍の命を奉じることぞ」
父久政の言が、それらの者たちをさらにあおり立てる結果となった。内書を領主長政にではなく、久政に送りつけた義昭の策が生きたというべきか。もはや大勢は長政一個の力では如何ともしがたく、父祖以来の朝倉との交誼こうぎと、義昭の命を奉じることによって、朝倉援助が決定された。
「不思議なことに、かつて信長暗殺を勧めた遠藤喜右衛門きうえもんだけは、
「いまの信長公には力がある」
と言って、しきりに織田側につくことを主張したが、大勢を動かし得ることはやはり出来なかった。
2023/04/18
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