~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
姉 川 Prt-01
義昭に正室はまだいない。側室の中で義昭は病弱な一対の局と三位の局はさておき、小少将を一番よく寵愛した。いろの白さと美しさではさこの方が一番であろうが、されるがままのさこの方とは違って、小少将には積極的に義昭を喜ばせようとする意志があり、抱けばしなう肢体に義昭は何度も陶酔させられる。目尻に張りのある切れ長の瞳も義昭好みであった。
それに比べて側室の中で、春日局が一番万事におっとりとしていて、房事も淡白であった。やや太りじしの雪肌も悪くはなかったが、なぜかこの女と居れば、遠い記憶にある母に抱かれているような錯覚を義昭は感じていた。幼くして寺に入った義昭に、母の実感はあろう筈もなかったが、豊かな白い乳房にたわむれるだけで、一種のやすらぎを義昭は感じ、おだやかな春日の眼差しに見つめられると、義昭の心はどういうわけか落着いて来る。そういった意味では、大蔵卿と小宰相の局は春日局とは対照的に活発であり、美しさもさることながら、才気にあふれ、政治向きの話にも明るく義昭の謀略に感嘆したりもして、ねや睦言むつごととともに義昭を飽きさせなかった。
信長が家康の援兵と共に、江北をめざしたのは六月十九日である。
「今度こそ、信長も最後であろうよ」
今宵の伽の大蔵卿の胸乳にたわむれながら、義昭はそうつぶやく。
「小田様も、まさか公方様が浅井、朝倉に御内書を送られたとは、よも思われてはいず、哀れなことでございまするな」
大蔵卿は乳首を義昭に吸われると、快感に言葉をとぎらせながら、あえぐようにして言った。
「夷を制するに夷をもってする。将軍の威光なれば出来ることぞ」
義昭は大蔵卿の体の上で、息をはずませながら己の策謀を自賛した。
その話の信長が、浅井の小谷城に大軍と共に迫り、虎御前山とらごぜやまに陣を張ったのが二十一日の夜であった。
信長はこの戦いに、義昭の出動を細川藤孝を通じて要請して来た。公方をようした天下布武のための戦いであることを、強調するためであった。
拒否されることも予想していた藤孝としては、
「うむ、ならば行こうぞ」
と言う義昭の快諾に、一瞬わが耳を疑った。
「天下のためなれば、余も出馬せずばなるまい。信長とても将軍の御旗がまだまだ欲しいところかの」
皮肉を含んだ義昭の言葉にも、近ごろの藤孝はあまり気をとめなくなっている。義昭を擁したのは自分だが、もはや深い溝が出来ていた。しかし、この件に快諾してくれたことはありがたく、信長を怒らせなくてすむ。藤孝は義昭の近侍として、信長と義昭が真正面から敵対することだけを恐れていた。信長を怒らせば、即座に室町幕府の存在は霧消する。日々、義昭とは疎遠となりながらも、やはり公方の義昭の行く末を心の底では案じ、またそれを拠り所とする己の立場でもあった。
「さよう、天下のためでござりまする。なにとぞ出馬くだされまするように」
藤孝はくれぐれもと、念を押した。
「あいわかった」
くどいと言わぬばかりに義昭は言い、出馬の固い約束を藤孝に与えたが、腹の中ではせせら笑っていた。
「行くと見せかけて行かねば、信長の落胆も大きかろうよ」
一色藤長にそう言った義昭は、もはや信長の敗退する姿を目の前に描いていた。
2023/04/20
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