~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
義昭策謀 Prt-01
比叡山は古来よく戦場ともなっている。しかし、天険の地であり、狭い間道では敵も容易なことでは力攻めに押し寄せられなかった。
比叡山延暦寺はあいつぐ戦乱に、多くの寺領を喪失しつつあった。信長がその数少なくなった寺領を、さらに没収している。延暦寺は信長を仏敵とみなし、浅井・朝倉と通じるのは当然であった。連合軍を庇護し、食糧などの補給面でも協力を惜しまなかった。
背後には本願寺と三好勢、前面に比叡山に籠った浅井・朝倉、さらに六角が呼応し、若狭でも武田元実が信長の敵にまわったいた。これではさすがの信長も、うかつに京から動くわけにもいかない。この期に上杉や武田でも出て来ようものなら、万事休すといったところであった。義昭の檄はこの上杉、武田にも飛んでいる。しかし、両者ともに、国を空けてまで、すぐに全軍を出動出来るというものでもなかったことが、信長にとっては幸いした。
とにかく連合軍をやっかいな山から引きずり降ろせばどうにかなるとみた信長が、延暦寺に向って、信長の味方となれば寺領を還付し、また、もしそれが出来なくとも、中立の立場に立って貰いたいと言い送った。万事が高圧的な信長としては、考えられぬほどの下手に出ていた。が、これを拒否し、連合軍に協力するのであらば、全山を焼き払うというおどしを付けたのは、信長ならではのものであったろうか。
しかし、延暦寺はこの信長の誘いを黙殺した。怒った信長は谷々に火をつけた。対し、連合軍はすかさず越前に援軍の使者を飛ばした。
朝倉義景が、ついに重い腰を上げ、二万を率いて、比叡山麓に姿を見せたのは、十月十六日であった。
義景としても、期すものがあったのであろう。連合軍の士気は大いにあがった。ますます信長は苦境に立たされ、いらだつ日々が続いた。
季節は秋風の肌にしみる頃ともなっている。その間、四面楚歌の織田軍は各地で一進一退の抗戦を繰り返していた。顕如の檄で伊勢長島の一揆は、信長の弟延興のぶおきを尾張小木江こぎえ城に攻め、切腹に追い込んでいた。もはや本拠の尾張までもが危機にさらされていた。しかし、信長は京を一歩も離れることは出来なかった。家康の送って来た二千余騎の援軍が、六角勢に対抗したことによって、やっと戦況に一息がつける状態であった。
じりじりと信長の喉頚がしめつけらられる様に義昭は喜んでいた。すべては義昭の思惑通りに運んでいたと言える、朝倉義景が出て来たことで、義昭の指名した役者がほとんど出揃ったことになった。あとは信長が、かつての三好のように尻尾しっぽをまいて京を逃げ出すか、自滅するかが残っているだけであった。内書の効力は結果的には絶大であったことの証明であった。
「義昭め」
信長は、陰に回って糸を引いている義昭の存在を、呪わずにはいられなかった。
「その義昭公でござりまする」
仰木おおぎ方面に滞陣していた明智光秀が、信長の本陣にあらわれて進言した。この局面を打開するには、いったん浅井・朝倉と和議を結ぶ以外に手はなく、それには義昭を逆に動かすことが最良であるという考えであった。ここで光秀が義昭のことを公方と言わず、義昭公と言ったところに、今の光秀の立場がはっきりとあらわれていた。
「内書をばら蒔き、八方からこの信長を苦しめさせているが義昭ぞ、その義昭が和議などの斡旋をするものか。また、仮にそれを義昭が承知したとしても、浅井・朝倉が納得するとは思えぬ」
吐き捨てるように言ってのける信長に、ひるまず光秀は言葉を足した。
「勅命を頂くのでございまする。帝の命ならば、和議もまた可能かとこころえまするが」
それには義昭を通じることが早道であると、光秀は言った。
「うぬ。光秀!」
怒声とも思える甲高い信長の声が、明智光秀の頭上に降ったが、ひと膝叩いた信長の表情には狡そうな笑みが浮かんでいた。
「そうよのう。義昭をして朝廷を動かせば、なるほど和議も可能よ。その考えを良しとする。急ぎ細川義孝と計り、義昭に奏請させるべく手をうて」
和睦のことを信長も考えぬわけではなかった。しかし、義昭に一蹴されることがわかりきっていた。が、光秀の言うように、朝廷が動く気配を見せれば、天下を統治する将軍の立場としては、手をこまねいているわけにもいかなくなる。そのように義昭を仕向けることが、光秀ならば出来るかも知れないと信長は考えた。義昭の性格を光秀や藤孝ならば知り抜いてはいよう。二人が義昭をどう扱うか、信長としては腕をこまねいて見ているだけでよかった。かりに成功せずとも、もともとのことではあった。
2023/04/25
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