~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
義昭策謀 Prt-02
光秀と細川藤孝が練りに練った文面が、一色藤長を通じて義昭に届けられた。動乱は天下の不祥事であり、これを納めるは将軍の務めでもある。すみやかに論旨を奏請し、乱を静めるよう朝廷に働きかけられんことを願うという内容になっていた。
先に朝廷が動いたのでは、義昭としても、立場上恰好がつかぬことになる。それに、信長からは一言半句も内書のことについての詰問らしきことは、言って来ていなかった。
「なにとぞ、よしなに」
光秀は信長からの伝言であると、平身低頭で義昭に懇願した。
「信長の泣き言、きくことではありませぬ」
三淵藤英が反対を主張したが、義昭は半ば承知の気持になっていた。主導権がすべて自分の手の内にあるということが、義昭に心地よい余裕を与えていた。乞い願うという信長に、いつしかあれほど抱いていた恐怖感も半減していた。
「よかろう」
義昭は尊大に構えて、ことさら重々しく頷いて見せた。義昭の自尊心をくすぐった光秀の考えが成功したというべきか。
こうして十二月十三日付の、義昭の奏請による正親町天皇の綸旨りんじが、織田・浅井・朝倉に対して下ることとなった。
浅井長政は承知をしなかった。ここまで追い詰めた信長である。このまま包囲を続ければ、音を上げさせることは確実であり、天下布武の野望を打ち砕く事が出来る。
京の冬はことのほか冷えた。二、三日前から小雪もちらつきだしていた。この雪に朝倉義景がそわつきだしていた。長陣にんでもいる。が、それよりも眼前に舞う雪に怯えていた。越前は雪国である。雪という自然の前には、何者も逆らうすべはないという考えを義景は感覚として生まれた時から身にゆけていた。その雪がこれまで朝倉を外敵から守って来たとも言えたが、いま義景は大軍と共に遠く領国を離れ京の地に居た。時期を逸すれば、越路は深い雪に閉ざされ、食料の補給も途絶する。信長どころではなくなっていた。綸旨はそんな義景にとっては、渡りに船ともいえた。
なお激しく反対する長政を無視し、義景は一方的に和睦を了承した。浅井勢を残して、朝倉の大軍慌ただしく比叡山を降り、ひたすら越前に向かって帰路を急いで行った。
朝倉の退却のよって、浅井は孤立した。しかし、朝倉勢だけではしょせん信長と対峙する力はなかった。朝倉に引きずられるようにして、浅井もついに和睦を結び山を降りざるを得なかった。ここに信長の危機は去ったのである。
この朝倉義景の行動を、あきれかえり、かつ、悔しがっている男が居た。武田信玄である。勅命とはいえ和睦が信長の苦肉の策であることは、歴然としていた。それをあと一歩というところで雪に怯え領国に引揚げたのでは、何をしに義景が出て来たのかわからなくなる。上杉とは異なり、天下への野望をひたすら強く抱いている信玄にとっても、朝倉の撤退は痛恨事であった。
信玄は、年が変われば天下に向かって旗を進める気持でいた。信長包囲は信玄にとっても千載一遇の好機であり、やっと出動する目算も出来たいた。
「無能なるかな義景」
信玄は京の空に向かって、一挙の信長の首を取り損なったことをそう嘆いていた。
和睦の功によって光秀は、信長から宇佐山城を預けられた。この一事をとってみても、信長の危機がどれほどのものであったかがわかろうというものである。
形としては光秀は、依然として、義昭の直臣じきしんである。と、同時に信長の家臣として、ここに一城の主になる結果となった。義昭に白眼視されつつも、なお、義昭の側近でありつづける細川藤孝から祝意が寄せられていた。義昭と信長を挟んでの、光秀と藤孝の奇妙な関係は、朝倉に身を寄せていた当時より、なおもこうして続いていた。
2023/04/25
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