~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
義昭策謀 Prt-03
ともあれ、元亀二年は平穏に明けた。
義昭は得意の絶頂に居た。なにしろ、乱を己の力によって納め得たといううぬぼれがあり、信長からの感謝と、義昭をもちあげる言葉が送られて来たことにもよった。
「ぞんがい信長も意気地がない」
内書の乱発を知りながら、信長からは今もって文句の一つも言っては来ていない。来たら来たで怯えたであろう義昭は、来ぬことで逆にかさにかかった余裕を持ちだしていた。
鷹狩に使う鷹を豊後の大友宗麟そうりんに進上せよと命じ、小早川隆景たかかげや島津義久よしひさにも同じような命令を発していた。
この間、信長が岐阜でせっせと爪を研いでいることを知る由もない義昭は、信長不在の都で、将軍を満喫する日々を送っていた。
包囲網に、信長は怒り狂っていた。
しかし、打つ手は沈着冷静さを欠いてはいなかった。
本願寺と浅井・朝倉の連絡を断ち切るために、木下秀吉をして姉川から朝妻までの水路をまず封鎖した。騒然とはなったが、戦にはならなかった。和睦の効果は未だかろうじて生きていた。
「信長が動けば、再び八方に檄を飛ばせばすむことじゃ」
信長封じ込めに成功したことで、義昭は充分なる自信を持っていた。
その信長が二月に入って、突如、浅井方の猛将磯野員昌かずまさを攻撃した。浅井に援軍を送ってくるほどの余裕がないと見越したうえでのことであった。孤立した磯野は秀吉の参謀、竹中半兵衛の説得によって投降した。この磯野の投降が、その後の信長の状況を有利にした。
「あの磯野までもが・・・」
という、動揺を浅井川の譜代の臣ではない各地の城主たちに抱かせ、今更ながらに浅井の凋落ぶりを痛感させた。結果、織田に内応して来る者が続出した。
戦わずして信長は、浅井圏に勢力を拡張出来たのである。
戦わずして信長は、浅井圏に勢力を拡張出来たのである。
五月、松永久秀がはっきりと信長に反旗を翻した。強引なまでの信長の戦略と、人を人とも思わぬ使われ方に、前途の不安を抱いたためでもあるが、武田の動きに、より心を動かしたとも言える。信玄が動けば、信長などどうなるか知れたものではないと、この老いた梟雄久秀は考えはじめていた。
信玄に同盟を依頼し、同意を得るや、ふたたび三好三人衆と手を組んで、織田側勢と敢然と敵対した。寝返る時期を見定めることにかけては、久秀という男は当代随一であった。打算はこの男の持って生まれた特技であったといっていい。
この時の義昭の立場は複雑であった。
依然として幕府は、信長の武力を背景にして成り立っている。三好が京をめざして侵攻して来る位以上、義昭としてはこれに手をこまねいているがかりでもいられない。それに、いったんは信長憎さの余り三好にまで檄を送ったが、現実的には三好と聞けば憎悪感もあり新たな恐怖心も同時に湧いた。
義昭は細川藤孝」、三淵藤英らを出動させ、安芸の小早川隆景には三好征伐を背後から秘かに命じていた。
この三好側と戦って、和田惟政が戦死したのは、八月二十八日のことであった。義昭にとっては奈良一乗院からの、因縁浅からぬ惟政であった。
「武将の定めとは申せ、憂きことぞ」
義昭は一日部屋に籠っては、惟政の冥福を一色藤長とともに祈る殊勝な日を持った。
戦う姿勢を整えた信長が、本願寺の指令で動く伊勢長島の一向一揆と、浅井の小谷城の攻撃を開始していた。
和睦は始めからなかったかのように、すでに吹き飛んでしまったうた。
その信長が、突如、比叡山に襲いかかったのは九月十二日である。延暦寺の根本中堂ほか山王二十一社ことごとく焼き払い、僧徒千数百人をなで斬りにした。
「逆らったが、報いよ」
夜空を焦がし、全山炎を噴き上げる天空を睨んで、信長は小気味よげに言い放っていた。
伝教大師以来の霊場を血に染め、ことごとく焼き払うなどという暴挙をした者は、いまだかつてない。
仏敵、天魔という声が、信長にあびせられら。
むろん、信長には動じる色は生じなかった。焼き打ちは、すでに前年において警告していたものであり、それを実行に移したまでのことであった。
一方、十月三日に北条氏康うじやすが五十六才をもって死亡したことが、武田・北条・上杉の三大勢力圏に大きな波紋を起こしていた。北条を継いだ氏政うじまさは、これまで同盟関係にあった上杉と手を切り、武田を和した。ここに、信玄の都へ向かっての夢が、にわかに実現の色を帯びていた。
2023/04/26
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