~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
義昭挙兵 Prt-01
明けて、元亀三年正月。
義昭はこの年、三十四才にして、はじめて女の腹に我が種が宿ったことを知らされた。
身ごもった女が、病弱で交わりの少なかった三位の局であったことは意外であったが、義昭の喜びようは一通りではなかった。
安産の祈願を神社仏閣に命じると共に、一色藤長には、口がすっぱくなるほどに三位の局をいたわるようにと念を押していた。さすがの藤長も、うんざりとした表情を浮かべはするが、慶事にあたふたとした日を送った。
義昭自らは、夜ごと三位の局の部屋に入り浸り、まだあまり目立たぬ女の腹をいとおしむように撫でさすり、愛撫する毎日であった。
その機嫌のよい義昭を一転して怒らせたのは、細川藤孝である。
久方ぶりの義昭とその側近たちだけの席上、信長をめぐっての考え方で、上野秀征ひでまさや義兄の三淵藤英らと決定的な意見の食い違いを見せた。
日々、反信長の傾向があらわになっている御所の空気を憂えた藤孝が、いつになく強行にその考え方の危険性を指摘した。
「しかし、今日、四面はみな信長の敵と申してもよい。さらには、叡山を焼き打ちにいたした信長の所業、憎みてもあまりある。このさい信長をはっきりと敵とみなしてどこが悪いか」
上野秀征と、三淵藤英は、そう主張した。
この意見にもっともだと義昭が何度も頷くのを見て、藤孝はさらに語気を強めて言い放った。
「さすれば室町幕府は、つぶれまするぞ」
この言葉が、義昭を激怒させることとなった。
「だまれ、藤孝!」
聞く耳持たぬと義昭は、間隔の狭い眉を吊り上げ、持っていた杯を藤孝めがけて投げつけた。

細川殿に蟄居ちっきょを命じなされたそうでございまするな」
三月に上洛して来た信長が、義昭と会見したなかでの言葉である。
「細川殿は忠義の臣、幕府にとりましては、またとなき人物にござりまするぞ」
無言の義昭に、ふたたび信長が言い、鋭い眼光で義昭を睨み付けて来た。
その目は三好や松永の裏切りも、すべて陰で糸を引いていたのが誰であるかは見通しておるぞ、と言わぬばかりであった。
義昭は思わず信長を前にして総毛立っていた。そんな義昭のしどろもどろの態度の中で、会見は早々と終わっていた。
ふたたび身をもって信長の恐怖を体験した義昭が、大納言徳大寺とくだいじ公維きんつなの邸を取り上げ、これを信長に与えることで、一時的にもせよ信長の機嫌を取り結ぼうとした。
受けるには受けた信長ではあるが、姑息な下心がありありと見えているものを別に有難がるわけでもなかった。逆に、さらなる信長一流の厭がらせを打って来た。
正親天皇による改元の命令であった。
「元亀」という年号では、義昭が信長の虚を衝き「天正」を退けて成立させていた。今度は一歩先に信長が裏で朝廷に働きかけたことにより、いきなり義昭が命令を受ける立場に立たされていた。
二十九日には、正式に朝廷より改元儀式の費用を幕府がだすようにと言って来た。
「出さぬ」
義昭は、苦り切った顔を一色藤長に向けていった。
朝廷の使者に、どう答えたものかと弱り切る一色藤長をよそに、義昭はなおも改元に強く反撥する意志を見せ、「元亀」にこだわる態度を変えなかった。
2023/04/27
Next