~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
義昭挙兵 Prt-03
信玄は十月三日に甲府を発した。発つにあたって浅井と朝倉に激励を送っている。「風林火山」の旗に敵対し得る者はない。自他ともに武田の強さは認識されるところであった。
上洛通路に三河は当たっている。一撃で家康を粉砕する自信を信玄は持っていた。家康は事実この時震えあがっていた。矢のような援護の督促をもとに送っている。
「即座に送る」
信長としては、今までの関係上、義理からでもそう答えざるを得なかった。しかし、口とは裏腹に、信長は兵をなかなか送ろうとはしなかった。兵を割く余裕のないこともさりながら、武田と戦えば自らの破滅に通ずる危険もあった。しかし、窮地に追い込まれれば、家康とてたまりかねて信玄に和睦を結ぼうとする懸念がないでもない。そう気付いた信長は、やっと自分が傷つかぬほどの援兵を三河に送り出すことに決めた。
三方原みかたがはらは浜松市の北方、北から南へゆるく傾斜を持つ台地である。遠江に侵入した武田が、一言坂で偵察に出て来た徳川勢を蹴散らし、二俣ふたまた城を落城せしめ、天竜川を越えてこの台地に軍を進めて来たのは、寒気も一段と厳しくなった十二月二十二日であった。
これを迎え撃つに徳川軍八千と、信長が送った滝川一益、佐久間信盛などが率いる三千が、この日の夕に激突した。家康は、この戦いに勝目が全くないことを自覚していた。また、すでにこの時には武田の進路がまっすぐ上洛路へと向いており。家康の浜松城ごときを信玄がなんら眼中に置いていないこともわかていた。
だが篭城を勧める重臣たちの異見を振り切り、
「敵が領国を通過するのに、一矢も射ぬとあっては、武門の名誉にかかわることぞ」
と、三十一才のまだ血の気の多い家康はあえて決戦を挑む腹を固めていた。
しかし潔さだけでは戦は勝てない。武田の強さは桁が違っていた。一瞬のうちに織田徳川連合軍は総崩れとなって潰走していた。家康自身も己の記憶もなくなるほどに、馬を飛ばしてほうほうの体で浜松城に逃げ帰るのが精一杯というものであった
信玄は三方原から刑部おさかべに出、いよいよあとは信長を葬り去り、上洛を果すだけだとなった。
が、この地で信玄は、朝倉義景がすでに本国に引揚げてしまったことを知らされた。
朝倉義景が本国に引揚げた理由は“武田動く”に信長が小谷攻めどころではなくなり、さっさと湖北から姿を消したためもある。さらには、半年近くにも渡る長陣に飽いてもいた。しかしそれよりも、ふたたび雪が朝倉義景を極端に怯えさせてしまうこととなっていた。浅井の驚きをよそに、またしても朝倉は雪崩をうって馬首を越前に向け疾駆させてしまっていた。
「無能なるかな義景」
信玄は先年と同じ言葉を吐いて、この時も嘆かざるを得なかった。
朝倉義景の撤退は、義昭にとっても信玄にとっても大きな誤算であった。しかし、信長にとってはまだまだ危機が去ったわけではない。武田が上洛して来る以上、決戦は避けられない。また義昭を渦とする反信長勢力はいまや遅しと武田の進撃を待ち焦がれ、畿内では松永秀久を筆頭に各地で信長に反抗を見せていた。窮余の策として信長は、上杉謙信に同盟を切望し、謙信も武田を向うに総明には応じたが、しかし援助についてはまったく応答はなく、信長の窮地に変わりはなかった。この万事休すに信長に最後の打撃を与えるべく、義昭自らもついに兵を挙げることとした。ここまで来れば誰の目にも信長の滅亡は、はっきりとしたものにみえていた。義昭は近江石山、今堅田いまかただに砦を築きはじめ、敢然と信長に抗戦する態度を見せた。
刑部で年越した信玄は、翌年正月、三河野田城を攻めるとともに、帰国した朝倉義景に再度の出兵を促す使者を送っていた。
野田城は、どうすることも出来ずにいる家康と信長の援軍もないままに孤立し、二月の十日に落城した。しかし、朝倉義景の動き出す気配はこの期になってもまだなく、信玄は、義昭に対してその遺憾であることを伝えて来た。
これを受けて義昭は、朝倉義景に、せめて五、六千でもよいから即刻出兵せしめよと命じる一方、安芸の毛利輝元てるもと右馬頭うまのかみに任じる通知を送っていた。中国地方随一の覇者たる毛利は、元亀二年六月に一代の英雄元就もとなりが病死したことによっ、輝元が家督を継いでいた。叙任は、あまり天下への野心を持たないこの毛利を、なんとか味方に引き入れようとする義昭の下心のあらわれでもあった。
京都郊外岩倉の地侍たちまでもが反信長の旗印を掲げた三月、義昭は浅井・朝倉・武田にあらためて内書を送るとともに、御所である二条城の堀を深くし、兵を集めた。
2023/04/30
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